Rav, Y. (1999)

Rav, Y. (1999). Why Do We Prove Theorems? Philosophia Mathematica, (3) Vol. 7, 5-41.

この論文は,数学哲学のものですが,なかなか面白かったです.数学における証明が,コンピュータのプログラムのような無味乾燥なものでなく,非常に人間的なものであることを示しています.定理を証明する過程においていかに数学知識が発展するかいくつかの例で示しているところなども,ラカトシュの『証明と論駁』みたいでなかなか面白かったです.

この論文の中で特にポイントになるのは(私にとって),形式的な証明である Derivations と一般に数学者などが与える Conceptual proofs の区分だと思います.それぞれに対応するように,数学基礎論のような演繹的に「整合性 (consistency)」のあるフォーマルな理論と,数学基礎論以外の多くの分野のような意味などにおいて「一貫性 (coherence)」のあるインフォーマルな理論に区分できるというのは,確かにと思いました.摩天楼の基盤と宇宙船の作成のメタファーもわかりやすかったです.

このことを数学教育の研究に照らして考えてみると,フランス語では,prove と demonstration という二つの語があり (e.g., Balacheff, 1987),上の区分に一応対応する感じがします.それぞれの違いは, Duval (1991) などによりまたちょっと違った視点から示されています.そこでちょっとした疑問は,これらは本当に対応するものなのだろうか?ということです.実際,対応するのであれば,なぜ Rav はフランスの人なのに demonstration の語を用いなかったのだろう?学校教育における demonstration の利用が数学者社会の proof と同じように思えたからだろうか?それとももっと機械的に導かれているニュアンスを出したかったのだろうか?

Chevallard, Y. (198?)

Chevallard, Y. (198?). The Didactics of Mathematics : Its Problematic and Related Research. Recherches en didactique des mathematiques, 2(1), 146-158.

1980 年に開催された ICME 4 (Berkeley) で発表した論文だそうですが,RDM に掲載されているとのことです.しかし,ネットで調べたところ本当に英語で出ているのかちょっとわかりませんでした.そういえば,シュバラールの論文の多くは, http://yves.chevallard.free.fr/ にアップされているので簡単に入手できます.最近は雑誌の多くが電子化されていて,かつ大学がその会員になっているので,ほとんどネットでこと足ります.

この論文は非常に古いものですが,非常にわかりやすくフランス数学教授学がどのような学問なのか説明しています.短いので簡単に読めます.フランス数学教授学が70年代に形作られてきたとき,それがこれまでの教育学 (pedagogy) と何が違い,なぜそれが必要か,その説明が必要だったために書かれたものだと思います.

具体的な内容は,昔の教育学と比較し,かつ他の学問分野の発展の歴史を参考にしてフランス数学教授学の問題意識を説明しています.例えば,昔の教育学では,デュルケムやピアジェ,ブルーナーらに見られるように教育の理論や研究と言っても規範的 (prescriptive and normative) なもの,つまりデュルケムの言葉を使えば "practical theory" が主に扱われてきました.一方,兵器などの発展の歴史を参照すれば,ダビンチのような技術だけでは明らかに不十分で,即効性はなく遠回りになるかもしれないがガリレオのようなより科学的なもの(物理学)が必要になります.それを教育で考えると,"practical theory" ではなく教授学が必要になるということです.後半には,教授学的置換や教授学的契約の例も簡単に出てきます.

Chevallard, Y. (1999).

Chevallard, Y. (1999). Didactique? Is it a plaisanterie? You must be joking! A critical comment on terminology. Instructional Science, 27(1/2), 5-7.

数ヶ月前に一度読んでいたのに,また発見しました(忘れていた).これは論文というよりも3ページのちょっとしたコメントです.でも意外と面白い,かつ重要な裏話的なものです.

専門用語についてですが,それも「フランス数学教授学」そのものの英語表記についてです.この頃 (1999年頃) まで英語で表記する際に didactique の語を英語の didactics に訳さずそのまま使っていることがよくありました.例えば,Brousseau (1997) の『教授学的状況理論』の英語版では didactique を使っています.これは,フランス数学教授学が,通常の訳の「教授」やドイツの「教授学」のような意味で取られると嫌だからということに起因します.確かにフランスのものは,その問題意識や手法からして通常の mathematics education 研究とは異なるのでその気持ちはわからないでもありません.

この論文でシュバラールが言っている論拠もまあその通りかなって感じがします.つまり,他の言語との兼ね合いもあるし,そもそも他の分野(economy や geography など)でも科学的な学問分野と実際的な側面と両方を意味することを考えれば didactics の英訳でよいとするものです.

ちなみに,ブルソーも最近は didactics を使っています.確か PME30 のプレナリー論文だったと思いますが,言語学等の他の分野を見習って didactics を使うと言っていました.

シュバラールのこの論文では,もうひとつ専門用語の訳に触れています.そう彼の理論である「教授学的置換」の英訳です.こっちは,意味が変わってしまうといけないから,transfer (移動や変換など)ではなく transposition (置換)なんだとさ.

追記(2007/06/23):上のブルソーのことに関してですが,プレナリーの論文ではなく,発表の資料でした.Warfield のサイトから入手できます. http://www.math.washington.edu/~warfield/Didactique.html

Sensevy et al (2005)

Sensevy, G., Mercier, A., Schubauer-Leoni, M-L., Ligozat, F. & Perrot, G (2005). An attempt to model the teacher's action in mathematics, Educational Studies in mathematics, 59(1), 153-181.

この論文はなかなか面白かったです.フランス数学教授学の人たちなので,枠組みがしっかりしているし,数学知識が常に中心にあります.

論文は,数学教師の行為をうまく捉え分析するモデルを示すことを目的としています.そのモデルとは,次の3つのレベルの分析によって教師の行為を記述するものです.ちなみに分析の事例には,ブルソーの有名な "race to 20" を題材にした二人の教師の授業が利用されています.

1: mesogenesis, chronogenesis, topogenesis
2: 契約と milieu の関係
3: 教師の信念と通常の指導法

分析の枠組みがキーポイントかつ面白かったで,これらの段階を簡単に説明します.第一段階は,シュバラールの教授学的置換理論で出てくる chronogenesis と topogenesis,それと Mercier (多分)の mesogenesis を分析の視点として採用し,教師がいかなるテクニックを用いてそれぞれを制御するか示すものです.この mesogenesis は僕は初めて知ったのですが,いかに milieu を作るか,いかに milieu を新しい milieu に置き換えるかという数学教授の非常に中心的なところに視点を当てさせます.「milieu の devolution」というおおざっぱな過程を chronogenesis, topogenesis から切り離して milieu に焦点を当てている感じだと思います.そのため分析のスケールは非常に小さいものになります.

第二段階は,ブルソーの教授学的状況理論でおなじみの教授学的契約と milieu の関係を分析の視点として,第一段階の視点よりも少し大きなスケールで教師の行為を記述します.

第三段階は,授業のビデオを見せながら教師へインタビューすることによって第一段階や第二段階で見られる教師の行為の背景を示すものです.この段階の記述は非常に一般的な教師の考え(信念)が示され,必ずしも数学知識そのものに制約を受けた考えとは限りません.

確かにこれらの三つのレベルで教師の行為を記述すれば,数学知識との繋がりをある程度詳細に示せる感じがします.シュバラールとブルソーをうまく融合した感じでしょうか.でもシュバラールの praxeology や didactic organization などとの関係はどうなるのでしょう?必要ないのか?


論文の趣旨からは逸れますが,二人の教師による授業の違いがなかなか面白かったです.それぞれが生徒に対して与えたゲームの性質が非常に異なることがわかります.一人目の教師は,ゴールが勝つことのゲームとその方法を探すことのゲームを順番にうまく与え,生徒は後者のゲームをうまくプレイできています(つまり situation of action から situation of formulation にうまく移行している).一方,二人目の教師は,最初からゴールがその方法を探すことのゲームを与えてしまったので(situation of action が situation of formulation と合体してしまった),生徒が十分に勝つことを目的としたゲームをプレイできず,なかなか厳しい授業になっています.

ところで,最近米国の研究と比較してもう一つこの論文のような研究が好きな理由がはっきりしてきました.それは,数学教授の現象や教師の考えを,米国の研究が非常に emic に記述しようとするのに対し,数学教授学が常に ethic に記述しようとするところです.数学教授学の目的は教授・学習を説明することが可能な理論を構築することなので,ethic な記述をするのは当然です.いくら emic に現象や考えを記述しても,そのメカニズムや現象を生む理由を記述できる理論はなかなか出てこないと考えます.一方,米国の研究は emic 好きです.grounded theory の利用などもその現れだと思います.

Leinhardt & Ohlsson (1990)

Leinhardt, G. & Ohlsson, S. (1990). Tutorials on the structure of tutoring from teachers. Journal of Artificial Intelligence in Education, 2(1), 21-46.

この論文の著者は,必ずしも数学教育の研究が中心では,数学教育を題材に教師の意思決定 (decision making) などを研究しているようです.まあ有名人のようです.

論文自体は,教授 (teaching) を分析し,「よい」授業をデザインするための根本原理を導き出すというものです.雑誌自体が,AI 関係なので,AI でも使えるような根本原理ということです.論文では,数学の内容そのものに関わる教師の行為ではなく,数学の授業における様々な活動を促し,授業全体を組み立てる教師の行為(boundary marker などの meta-communication)を主な分析対象としています.データは,いくつかの基準で選ばれたエキスパート教師の授業からです.

第一印象は,数学の内容がないし,いくつか気になる点があり,あまり好きじゃない論文,でした.もっとも気になった点は,「よい授業」の存在とエキスパート教師の存在を仮定しているところです.「よい授業」に対する考え方が国や文化によって異なる(前回の記事参照)ことを考えれば,少なくとも「よい授業」は「アメリカにおいて」を付けなければ意味をなさないでしょう.そして,米国の授業があまり各国の関心を寄せ付けないとすると,分析したデータとそこから得られた結果はどの程度の説得力のあるものなのだろうか?と思いました.

その後,この論文に対する考えは,あまり変わっていませんが,色々考えるきっかけにはなったようです.主に考えたは,研究アプローチについてです.この論文では,数学教授学とアメリカの数学教育研究一般の違いが非常によく出ており,それぞれを位置づける一つの理解方法が少しわかった気がしました.もちろんこの論文自体は,数学教育研究の雑誌に投稿されたものではありませんが,この論文のような手法を使っている数学教育の研究がアメリカには多いのです.

論文では,教授過程,もしくは進行を結果的にはモデル化していますが,そのような研究結果は,数学教授学にもアメリカにも色々あります.例えば,数学教授学では,ブルソーの教授学的状況理論やシュバラールの organisation didactique がそれにあたるでしょう.米国の研究でも, scripts や ideal event などがそれにあたると思います.後者の研究手法は,今回の論文と似たようなものです.そこで,両者の研究アプローチを考えてみると非常に大きな違いがあることがわかります.もっとも大きな違いは,このような教授をモデル化する際にどこを出発点にするかということです.数学教授学はもちろん「知識」を出発点にします.知識を分析することにより,教授においてどのような行為が必要になるか考えます.そのため,導き出された結果は,知識に特有の結果になります.一方,アメリカの場合は,知識とは関係なく,とりあえず授業そのものから教師の行為から出発します.そして,なんとか教師の教授という行為をモデル化・理論化しようと努めます.この場合,拠り所を明確にするのが大変です.そのため,この論文でも取られた手法のように「よい授業」や「エキスパート教師」の存在を仮定しなければならなかったり,数学教育以外の領域の理論(言語学,民俗学,社会学,activity structures など)を持ってくる必要が生じるのでしょう.

まとめると,「知識 --- 教授」という図式(上下に考える「教授」が上)があるとすると,アプローチの方向がまったく逆なのだと思います.数学教授学は,ボトムアップでモデル・理論を構築しようと努め,米国はトップダウンで同じことをしようとしていると捉えられます.もしかしたら同じモデルに行き着くのかもしれません.個人的には,僕はボトムアップの方が好きですね.トップダウンの場合は,その論拠を示すのが難しそうです.

Jacobs & Morita (2002)

Jacobs, J. K., & Morita, E. (2002). Japanese and American teachers' evaluation of videotaped mathematics lessons. Journal for Research in Mathematics Education, 33, 154-175

非常に読みやすくスピーディに読めました.アメリカの教師と日本の教師の考える理想的な授業に対する考えを分析したものです.それぞれが非常に異なる考えを持っていることがわかり,なかなか面白いです.

研究の方法は,それぞれの国で撮ったビデオをそれぞれの国の複数の教師に見て批評してもらうというものです.データの分析自体は,scripts や米国人の好きな grounded theory などが用いられており,数学知識との関係で構築された理論は用いられていません.まあこれが数学教授学と異なる点ですが,アメリカなのでしようがないでしょう.

実験の結果で,日本の教師による米国の授業の理想的な側面が得られなかったというのは,そうだろうと思います.もちろんどのような授業が理想的であるかは,時代によっても異なり,学習そのものの理解の仕方によっても異なり,明示するのは難しいですが,少なくとも現在の日本人にとっては現在の米国の授業は理想からほど遠いのは確かだと思います.私も米国に来ていくつか授業を見ましたが,個人的な善し悪しの観点からすれば,どれもひどいなぁ,というのが感想です.授業が複雑かつ曖昧で,何をしたいのかよくわからないものが多かったです.子どもたちより数学を知っている見学者がわからないのだから,子どもがわかるわけありません.

とまあ授業に対する個人的な批判はおいておいて,論文自体は,数学教授学の範疇に入るものではありませんが,米国の数学教育研究においてよく見られるタイプのものです.数学教授学では,研究をより科学的にするために,数学そのものをより深く分析します.一方,米国では,研究をより科学的にするため大量のデータと統計的手法を用いることが多いようです(最近?).そのためか,数学そのものの分析は少なくなり,他分野(認知心理学等)の研究者でも研究できそうな印象がしてしまいます.

Simon (1995)

Simon, M. A. (1995). Reconstructing mathematics pedagogy from a constructivist perspective. Journal for Reserch in Mathematics Education, 26 (2), 114-145.
Steffe, L., & D'Ambrosio, B. (1995). Toward a working. model of constructivist teaching: a reaction to Simon. Journal for Reserch in Mathematics Education, 26 (2), 146-159.
Simon, M.A. (1995b). Elaborating models of mathematics teaching: A response to Steffe and D'Ambrosio. Journal of Research in Mathematics Education, 26 (2), 160-162.


読み始めて,特に最初の方にいくつか共感する部分があり面白そうだと思った.まあ最後の方の hypothetical learning trajectory などの教授モデルはおいておいて,それなりに面白い論文だった.

共感した部分は次の2点:
第一に,構成主義が単に学習(教授ではない)がいかになされるかという見解 (tenet) でしかないととらえていること.それはまったくその通りだと思う.いつからかどこから構成主義が変に解釈されて,教授法の一つみたいに考えられてきた.おそらくアメリカもしくは英語圏で多かったのだと思う.フランスではそんなことは全くなかった.原文を読み,当該者と議論できる環境だとそういうことは起きないんじゃないかな.実際,誰もピアジェを教育学者だとは思ってない.

第二に,フランスの数学教授学研究をある程度把握していること.これはちょっと個人的な好みになるが,やはり理論面は進んでいるので,いいことです.

いくつか思ったこと:

シェーム (scheme) に関して
長方形のテーブルを長方形の単位で面積を測る問題 (Turned Rectangle Problem) で学生がなかなか理解できなかったことが取り上げられている.この点に関しては,Steffe & D'Ambroisio (1995) が利用されるシェームが違うから当然だのようなコメントをしている.そして Simon (1995b) でそれはその通りだのようなコメントを返している.

「シェーム」の語は,このような場合に,人間が用いている知識の側面やその区画化を説明できて確かに便利.しかし,そこで僕が思ったのは,それ以上の説明はできるものではないということだ.シェームを考えれば,Steffe & D'Ambroisio (1995) の言うように,別のシェームが利用されるように既得知識を活性化すればよいということになる.確かにその通りではある.しかし,それぞれはいかに特徴づけられ,いかに区分されるのであろうか.曖昧である.シェームという概念そのものが曖昧なのである.そのため,フランス数学教授学では,Vergnaud (1991) らによって concept, conception などが数学そのものの性質を考慮して導入された.特に重要なのは表現・表記法,特に register だと思う.上の例も register もしくはコンセプションの概念を使えばもっとうまく説明できる.

構成主義的教授
Simon の行った授業はおそらく「構成主義的教授」の一つであるのだと思う.しかし,構成主義の根本原理の一つである,環境 (milieu) からのフィードバックについてはほとんど分析がなかった.なぜだろう?同化や調節については触れられていたが,どれも教師からのフィードバックに関してだったように思える.物足りなく感じた.

教授モデル
Simon は自分の授業から構成主義に基づいた教授モデルを構築している.そこで素朴な疑問は,本当にこのモデルが構成主義に基づいた教授モデルの必要十分条件になっているのだろうか,である.reflection を促すことが構成主義に基づいていることの一つとしてあげられているが,このことはこの教授モデルといかに結びついてるのかあまり明確でない.さらに,環境からのフィードバックも考慮されていない.すると,この教授モデルは,構成主義の根本原理を満たしていない学習を促す教授でも構成主義に基づいていると言い張ることができそうな感じがする.Simon が冒頭で危惧していたこと (構成主義的な教授と言い張っているものが多い) を再現しないか心配である.

Ball (1993)

Ball, D. L. (1993). With an eye on the mathematical horizon: Dilemmas of teaching elementary school mathematics. The Elementary School Journal, 93 (4). pp. 373-397.

Ball (1993) では,教授におけるいくつかのジレンマが示された.いくつか引っかかるところもあったけど,論文自体はなかなか面白かった.

引っかかった点に関して:

数学そのものの性質では,負の数の扱いのところで,演算としてのマイナスと数としてのマイナスを明確に分けていなかった.ビルディングの表現では,数としてのマイナスは,位置としての階の番号と,上への方向を持つ量としての移動分を,マイナスを用いてうまく表現できる.しかし,演算としてのマイナス(つまり引き算)はちょっと難しい.もしかすると,移動分の量のみの演算として演算のマイナスも出現させることはできるかもしれないが(要検討).

もう一点引っかかったのは,ショーンの偶数個のペアのところで,スタンダードな数学では意味をなさないようなことが書かれていたけど,4 の倍数ということを考えれば,数学的にも意味はある.2 (2k) もしくは a = b (mod 4) がどんな数か探究すればそれなりに面白いであろう.もちろんその方向に授業を持って行くかどうかは別で,教師の展望から外れてしまう可能性があるという意味で,ジレンマではあるかもしれない.

Representation (表現)に関して:

表現のジレンマに関しては,Duval (1995, 2006) の register を考えれば,現在からすれば,当然ではある.もちろん米国では今でもあまり知られていないのだろうけど.register の視点からすれば,このジレンマは数学を教えようとするときの用いられる表現に固有なジレンマである.Duval が言うように,ある数学知識を獲得するためには最低2つの register が必要となってくる.しかしそれぞれの register においては,与えることのできる情報や可能な操作が異なり,それぞれは対応する数学概念の側面が異なるのである.

Postulate って?

アメリカの高校数学では,axiom (公理)と言う語は出てきません.その代わり,postulate という語が頻繁に出てきます.postulate は,日本語では「公準」で,公理と同じだろうと思っていたのですが,どうも違う感じです.というのも,教科書にはやたらと沢山の postulate が出てくるのです.さらに,高校の数学の先生は,postulate は「明らかで証明のいらないもの」程度の認識しかないのです.

例えば,ユークリッド幾何学の「平行線の公理(公準)」が postulate と呼ばれるのは普通だと思いますが,三角形の合同条件も三辺相等などそれぞれの条件が postulate と呼ばれています.合同条件は明らかに公理ではありません.「合同」を定義したらそれぞれの条件を導くことができます.言ってしまえば,定理です.しかし,アメリカ(ミシガン)では,それぞれをその学習段階で証明できないからか postulate と呼びます.

もしかしたら,証明できないものでも,ほかの証明の道具として利用するために axiom ではなく,postulate と言う名称を用いているのかもしれません.

この postulate の利用にはもちろん様々な弊害が生じます.例えば,平行線の公理のように,本来本当に公理であるものがなぜ公理として証明なしで利用するのか(例えば,ユークリッド平面を規定するなど),その理由が忘れ去られてしまいます.なぜならば,ほかの postulate の利用の理由が単にその学習段階で証明できないことにあるからです.

アメリカって変なの.

height と altitude

今日,数学における英語の height と altitude の違いを学んだ.
これまで同じものかと思っていた.

Height: 日本語で「高さ」に相当.つまり一つの測度 (measure) .
Altitude: 日本語では,ある幾何図形(特に三角形や四角形,角錐等)において一つの頂点を通って辺,面に対して垂直な直線.簡単に言えば,一つの頂点を通る垂線 (perpendicular line).したがって,一つの幾何図形 (geometrical figure) .

まあ英語では,頂点を通る垂線に特別な名前を付けているってことですね.でも,なんか altitude が直線なのか,線分なのかは曖昧みたい.厳密には直線だと思うけど,実際には線分として捉えられていることが多い感じがする.まああんまりたいしたことではないけど.