÷ の記号 (割り算記号?)

この記号の意味は何でしょう?英語では obelus と呼ばれます.日本人にはあまりにも当たり前で問いにもならないかもしれません.

もう10年以上前になりますが,2004年にノルウェーのベルゲンという町でPMEという数学教育学の国際会議がありました.それに参加した際のお話です.ベルゲンの街を散策していると,ある洋服屋さんでバーゲンらしきものをやっており,そこには,でかでかと「÷30%」と書かれていました(写真を撮るべきだった).そのときの私の反応は,おそらく皆さんと同様と思われますが,「値段が高くなってしまうやんけ!(笑)」でした.0.3 で割れば,元の値段の3倍ちょいになってしまいます.一緒にいたスイス人とマレー系アメリカ人も同様の反応で,一緒に笑っていました.

ところが,数年後,あるデンマーク人と話していたとき,ふとしたことから,その意味を知りました.そう,実は北欧では,「÷」をマイナスの意味で使うというのです.ノルウェーで見た「÷」の記号はマイナスを意味し,「÷30%」は「30%引き」を意味していたのです.ビックリです.ノルウェー人の算数レベルが低かったわけではなく,単に,笑っていた者が無知だったのです(笑).

調べてみると,カジョリの文献に詳細に書かれていました (Cajori, 1928/1993). カジョリによると,ヨーロッパでは,16世紀頃は「-」をマイナスや引き算に使っていたそうですが,その頃から「÷」にとって代わるようになり,19世紀頃まで(北欧では20世紀になっても)「÷」をマイナスや引き算に使うことが見られたとのことです (idem., pp. 240-243).したがって,「÷」がマイナスや引き算の意味で使われていた時代があり,ノルウェーでの利用はその名残だったのです.

ちなみに,ドイツやフランスの大陸ヨーロッパでは,割り算の記号は「÷」ではなく,「:」を使うことが多いです.「÷」を割り算に用いる記法は,あるスイス人の17世紀の文献で見られ,その記法は大陸ヨーロッパやラテンアメリカでは定着しなかったものの,その翻訳がイギリスで発行されたため,イギリスで広まりさらにアメリカにも広まったとのことです (idem., pp. 270-271).それが日本にも明治以降に入ってきたのでしょう.

なお,日本語のウィキペディアの除算記号のページは,英語から部分的に訳したためか,記述がずいぶん間違っています(しかも2007年から!).北欧で除算記号として使われたのではなく,北欧では最近までマイナスや引き算の意味で使われていると,英語版では書かれています.さらに,ラーンやペルは考案者ではなく割り算の意味で使い始めた最初の人々です.さらにさらに,この記号が分数表記を変形したものというのも怪しいですね.英仏のウィキペディアによれば,obelus は短剣符や細い棒などを意味するギリシャ語を語源とするようです.いずれにしても,ご注意ください(誰か修正してください).

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A4%E7%AE%97%E8%A8%98%E5%8F%B7
https://en.wikipedia.org/wiki/Obelus

Cajori, F. (1928/1993), A history of mathematical notations (two volumes bound as one), Dover.

国際学会による数学教育学の研究者育成

最近,国際的な学会による数学教育学の研究者育成・養成が盛んになってきたように思います.まだまだ新しい研究領域である数学教育学が今後も発展していくためには大変大事なことですね.そこで以下では,いくつかの国際的な学会による研究者育成の取り組みを紹介したいと思います.

2016年にドイツ・ハンブルグで開催されたICME-13 (http://icme13.org/) では,Early Career Researcher Day なるものが,24日のICMEの本会議の開始前に開催されました.このような取り組みは前回のICMEではなかったように思います(間違っていたら教えてください).これは数学教育学の研究経験の少ない人を対象とした研究者育成プログラムです.その内容を見ると,本会議以上に興味深いものがたくさんあります (http://icme13.org/early_career_researcher_day/program).いろいろある専門領域に分かれており,それぞれにおいてその専門領域がどのような研究なのか,第一線の研究者が講義をするようです.私も聞いてみたかったです.もしかしたら演習なども含まれるところもあるかもしれません.

こうした研究者育成プログラムは他の国際学会でも進められています.PME (http://www.igpme.org/) の年会では少し前から Early Researchers’ Day なるものが,本会議とは別に開催されています.いつから開催されているかは知りませんが,昨年のオーストラリア・ホバートで開催されたPME39 (http://www.pme39.com/), 今年のハンガリー・セゲドで開催されたPME40 (http://pme40.hu/) では開催され,さらに今年の総会では,この研究者育成プログラムを年会の正式なプログラムに位置付けることが決定されました.

学会による研究者育成の動きはヨーロッパではもう少し早くからありました.1998年に設立された ERME と呼ばれるヨーロッパ数学教育学会 (http://www.mathematik.uni-dortmund.de/~erme/) というものがあります.この学会には YERME という若手の会があります.この会は若手の有志の単なる集まりではなく,その代表2名が理事のようなものにも入り ERME の運営にも関わるというERMEの正式な組織です.若手の意見を学会に反映できる仕組みを取り入れているのです(この仕組みはフランスのARDMという学会も同様です.一方,わが国では・・・).そして,ERME による2年に一度の国際会議 CERME では,今年のICMEやPMEのように,本会議の前にYERME day という若手対象のプログラムが用意され,さらに,2年に一度,YESS (YERME Summer School) と呼ばれる若手研究者向けのサマースクール(夏期講習会)が開催されています.2016年8月はチェコで開催のようです (http://ocs.pedf.cuni.cz/index.php/YESS/YESS8).

これらの国際学会による研究者育成プログラムでは,第一線の研究者による講義と演習・ワークショップからなることが多いようです.演習やワークショップはグループでデータを分析しディスカッションするというのがよくある形式だと思います.教科書やプロトコルなどのデータを何かしらの理論を使ってみんなで分析し議論することにより,実際に研究を進める上で必要となる実技能力の獲得を目指すわけです.日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが,ヨーロッパに限らず,学会による研究者育成プログラムに限らず,国際的にはよく見られるもののように思います.

また,こうしたプログラムの目的は,研究者としての技能を習得すること以外に,研究者のネットワークを作るということにもあります.ワークショップでのディスカッションや食事会など,知り合いを作れるような機会が用意されています.同じような境遇の研究者と知り合い仲良くなって(他の研究者は敵ではありません),いろいろな問題を共有するとともに,将来の共同研究へもつながれば,と考えるわけです.最近のEUでのヨーロピアンプロジェクトなど,数学教育学研究は国際共同研究が基本になってきました.その素地を作っているのでしょう.さらに,数学教育学研究の問題意識や方法論などの共有化をももたらすという目的もあるかもしれません.実際,数学教育学の研究は国によって非常に大きく異なることがこれまでしばしば指摘されてきました.そして近年,理論のネットワーク化など,種々の研究の相互理解を促す試みが多く進められています.こうしたプログラムに参加することにより,早くからいろいろな問題意識や方法論を共有化する機会となるのでしょう.脱線しますが,確かに,フランスの場合などは,数学教育学研究が発生してきた初期から,この共有化のために,若手に限らず,数学教育学の研究者を対象にサマースクールを開催してきました(1980年から),そのため,問題意識や理論,方法論は驚くほどに共有されています.

以上,長くなりましたが,こうした研究者育成が海外では着々と進められているわけです.日本も頑張りたいところですね.とりあえず,わが国の博士課程の院生の方,博士を取って間もない方,年齢にかかわらず数学教育学研究の経験の少ない方(学校現場が長かった大学教員の方,数学の専門から数学教育学に関心をもった方,などなど)などにこうしたプログラムに大いに参加して欲しいところです.英語のブラッシュアップにもなります.ちなみに,ICMEやPMEでは,Young researcher ではなく,Early Career Researcher, Early Researchers の語が用いられています.これは,数学教育学の分野は教員等をやってから博士課程に進み研究者になる方が少なくなく,研究者のキャリアは少なくても年を取っていることがしばしばあるからです.

schema (シェマ、スキーマ)と scheme (シェーム、スキーム)

以前から思っていたのですが、 英語圏や日本での schema と scheme の使い方は結構不思議です。

英語圏や日本でピアジェの理論について議論する際、schema (シェマ)という語がしばしば用いられます。特に数学教育の現代化の頃でしょうか。今日でも、算数教育の辞典などにはシェマの語が見られます。ところが、フランスでピアジェの勉強をすると schema (シェマ)の語はほとんど出てきません。出てくるのは、 scheme (シェーム)です。フランス語で、schema と scheme は基本的には関係のない語です。前者は図式を意味する一般的な語で、後者はピアジェの理論などで出てくる人間の行為に関わる抽象的な心的な構造を意味する専門用語です。 scheme が英訳されて schema になったのでしょうか。
次のピアジェの仏語のウィキペディアをご覧ください。 基本的に scheme の語が用いられています。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Jean_Piaget

いろいろ見てみると、スキーマとシェマが異なるという議論まであります。語学的には、schema を英語読みするか、フランス語読みするかの違いしかないように思いますが、わが国(英語圏も?)の認知心理学では意味が異なるようです。フランスでは、 Piaget の理論が英語圏で固有な解釈のされ方をしていると指摘されることがありますが、英語圏で発展した概念ということでしょうか。
仏語のウィキペディアにシェマのページがありました。解説にピアジェが出てこないところを見ると、英語圏から逆輸入されたものかもしれません。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Sch%C3%A9ma_%28psychologie_cognitive%29

一方、最近の数学教育学の研究では、 schema の語が用いられることは少なく、 ほとんど死語のようです。scheme (英語読みではスキーム)はたまに用いられます。例えば、Harel らの証明の scheme というものがあります。 Instrumental genesis でも scheme が用いられています。後者は、フランスの認知心理学者 Rabardel が使っているものですから当然かもしれませんが・・・。

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めずらしいかけ算

学生がちょっとかわった掛け算の方法を見つけてきた.
結構,面白いので紹介します.下にあげた書籍に出ているそうです.

以下の手順で進めます.下のは 37 x 43 の場合.
1.A を 2 で割って商を下に書いていく.余りはいらない.
2.B を2倍して積を下に書いていく.
3.A が 1 になるまでこれらを繰り返す.
4.A が偶数のところを線を引いて消す
5.残ったBを一番上から全部足すと答えがでる.

A    B
37 × 43
18    86
9    172
4    344
2    688

1    1376
----------
    1591

もちろん,こんな面倒な方法を使って計算する必要はありません.
ポイントはなぜこれで求められるかです.
ヒント:二進法展開.3で割って,3倍する場合は?

大須賀康宏 編著 (1982). 『楽しく学べる算数ゲーム・パズル』,東洋館出版社.

コーヒーとミルク,どっちが多い?

久々の更新です.

PRIMAS (http://www.primas-project.eu/) という数学・理科の教師教育関係のヨーロピアンプロジェクトがあって,その成果物に色々な教材,実践事例が出ていました.その中で面白いなと思ったものがあったので紹介します.日本では中1の文字式あたりの問題になります.

コーヒーとミルクが同じ大きさのグラスに同じ量だけ入っています.

スプーン(お玉でもいいです)でコーヒーのグラスからミルクのグラスへコーヒーをある量だけ移し,混ぜます.
そして,今度は同じスプーンで混ざったミルクのグラスからコーヒーのグラスへ同じ量だけ移し,混ぜます.

さて,ミルクのグラスに入ったコーヒーの量とコーヒーのグラスに入ったミルクの量,どちらが多いでしょうか?


この問題は,子どもたちが協働して探究することを想定したものです.答えがなぜそうなるのかを考える過程で,色々なモデル化の方法が出てきて,算術から代数への移行を促すことを意図したもののようです.やってみてください.

日本でもこのような問題はあるのですかね?ちなみに,今回のは誰のかなと思っていたら,なんと,以前グルノーブルにいて,現在ジュネーブ大学の Jean-Luc Dorier が書いたものでした.確かに,代数学習の関係の研究を結構やっていました.
http://www.primas-project.eu/artikel/en/1066/The+wine+water+situation/view.do?lang=en

1冊でわかる 数学

ティモシー・ガウアーズ (2004). 『1冊でわかる 数学』(青木薫訳),岩波書店.

フィールズ賞を受賞した数学者による著書です.タイトルからして数学の軽い啓蒙書のように思えますが,内容は結構興味深いものです.というのも,数学そして数学的な活動がいかなるものか,ウィトゲンシュタイン的な立場から,様々な具体例を交えて示しています.私は論理実証主義とかウィトゲンシュタインとかをあまりよく知らないのですが,本書では,「数学的対象は,それが何を為すかによって規定される」という立場を基本に,色々な事例が紹介され,そうした立場にある程度納得がいくようになっています.

前回紹介したイタリア人の本もそうでしたが,ちょっとした興味・関心を引くための啓蒙書というよりも,数学の本性を問う数理哲学チックな本です.本書の最後の方では,数学教育についても少し語っており,そこは???なところもありますが,目を通してみる価値はある本だと思いました.

数はどこから来たのか:数学の対象の本性に関する仮説

Giusti, E. (1999). 『数はどこから来たのか:数学の対象の本性に関する仮説』(斎藤憲訳),共立出版.

イタリア語の翻訳本ですが,非常に読みやすいとともに,その内容が大変よかったです.数学史の本というよりも,数学の本性や発生に焦点を当てた,科学哲学,数学のエピステモロジーの本という感じです.

本書では,数学的対象が創り上げられる過程において,「探求の道具」「問題への解答」「研究の対象」といった段階が存在することが,数や幾何,群などを事例に非常にわかりやすく述べられています.こうしたことは,数学教授学研究では80年頃から数学的な知識の性格として結構考慮に入れられているものです.例えば, Douady の Tool/object の理論は,まさに「探求の道具」と「研究の対象」の側面を考慮に入れたものですし,Brousseau の教授学的状況理論でも,situation of action では,「探求の道具」として新たな数学的な知識が発生し,その後の situations ではそれが検討の対象になります.しかし,こうしたことを数学史や科学哲学等の文献,特に和書では読んだことがありませんでした(おそらくあるのだと思いますが).そういった意味で非常にお薦めです.教授学的状況理論等を理解するためにも助けになると思います.

ERIH: 人文社会科学系ジャーナル index

約2年ぶりの更新です.

ERIH という ESF (European Science Foundation) が作成している人文社会科学系ジャーナル index があります.それが最近更新されました.これを見ると,ヨーロッパの研究者から見た国際誌の評価がなんとなくわかります.数学教育学の国際誌については,すべてが入っているわけではありませんが,有名どころは結構 INT1, INT2 に入っています.今回の index で INT1 とランク付けされた純粋に数学教育学研究の国際誌は,ESM, RDM, JRME, Mathematical thinking and learning, Relime でした.こうしたランク付けは,ちょっと微妙ですので,あくまで参考程度に.

http://www.esf.org/research-areas/humanities/erih-european-reference-index-for-the-humanities/erih-foreword.html

書籍の電子化

ちょっと前、 google などによる書籍の電子化について著作権の問題等が話題になっていました。しかし電子化のおかげでこの世の中はすんごく便利になりました。特に古い洋書なんて読もうと思ったら、見つけるのが非常に大変です。日本にあればまだいいですけど、なければその国までいかないといけません。

今日発見して大変嬉しかったサイトは次のフランス国立図書館の電子図書館です (http://gallica.bnf.fr/)。これはすごいです。18世紀、19世紀の数学の本などが pdf でダウンロードできるのです。やるな、フランス、と思いました。数学以外も色々なジャンルの古い書籍が電子化されているようです。ちなみに今日ダウンロードしたのは、19世紀の数学の教科書とルジャンドルの幾何学の教科書。

ちなみにオイラーのものはほとんどすべてが以下のサイトで入手できます。
http://math.dartmouth.edu/~euler/

フランスに「小数」は存在しない!?

小数とは何でしょう?0.1 や 0.1234 のように 0 より小さい実数のことでしょうか?それとも,位取り記数法と小数点を用いて実数を表現するための表記法のことでしょうか?それとも,その表記法で表現される実数のことでしょうか?日本のものを色々見てみると,小数は数自体ではなく,表記法を指しているようです.そしてすべての実数が小数で表現できると考えるようです(e.g., 1 = 0.99..., 12 = 12.000..., pi = 3.1415...).これらのことからすれば,よく「小数1.23を10倍した数は12.3である」などと言いますが,省略せずより正確に書くと「1.23と小数で表記されるある実数を10倍した数は12.3と表記できる実数である」となるのでしょう.

この日本の「小数」という言葉,実は非常に興味深く,国によって異なるようです.少なくともフランスはちょっと違います.数学が国際言語というのは嘘かもしれませんね(笑).

「小数」の英訳は Decimal number とか単に Decimal だと思います.仏語でも同様に Nombre decimal と言ったり,単に Decimal と言ったりします.しかし,フランスの小学校の教科書などを見ていると,どうも上であげた日本語での「小数」と意味が異なります.実は定義が違います. nombre decimal の定義は,仏語の Wikipedia によれば,「有限の十進展開を可能とし,a x 10^p (a とp は整数)の形で表記できる数」とあります.確かフランスの教科書でも似たような定義だったと思います.ここで興味深いのは,nombre decimal が表記法ではなく,「数」として定義されているところです(ちなみに仏語で小数表記はexpression decimale などと呼ばれる),日本の表記法としての「小数」とは違うものなのです.

例えば,12 や 12.34 などは nombre decimal です.日本語で 12 を小数と呼ぶには抵抗があるでしょう.でも,フランスでは nombre decimal のひとつです.さらに,0.3333... と無限小数として表記できる有理数(1/3 とも表現できる)ですが,日本では「小数」と呼ぶかもしれませんが,フランスでは nombre decimal ではありません.上の定義でも,フランスの教科書でも記述されていることですが,nombre decimal には有限の十進展開しか認めないのです.つまり有理数は nombre decimal とは限りません.そして,もちろん無理数も nombre decimal ではない.nombre decimal とは,有理数の部分集合なのです.この nombre decimal の集合は,自然数の集合がN,整数の集合がZと書かれるのと同様に,D と書かれ.数の包含関係で表現すれば,N < Z < D < Q < R < C (ここで < は包含関係の含むを意味するとする)となります.

ちょっとした違いかもしれませんが,このように違うと nombre decimal を「小数」と呼ぶのには,抵抗がありますよね.おそらく,直訳で「十進数」と呼んだ方が良いのだと思います.日本で十進数が上の定義に合致するか知りませんが,小数よりは近い感じがします.しかし,するとフランスには「小数」という言葉が存在しないことになります.面白くないですか?しかし D のみを定義域として何かしたり,その性質を探ることってどのくらいあるのでしょうね?例えば,コンピュータは D しか使えないので,そっち方面などで利用されるのですかね?

ちなみに,英語圏での扱いは日本と似ている感じです.ネットで簡単に調べてみたのですが,Decimal number の信頼性のある定義を得ることはできませんでした.Decimal を小数点を利用する表記法として捉えていたり,十進数のことであったり,曖昧で,0.333... が Decimal Number であるかどうかはわかりませんでした.少なくとも,その集合を D と書くことはないようです.

Heffernan, N. T. et al. (2008)

Heffernan, N. T., Koedinger, K. R., & Razzaq, L. (2008). Expanding the Model-Tracing Architecture: A 3rd Generation Intelligent Tutor for Algebra Symbolization. International Journal of Artificial Intelligence in Education, 18 (2), 153-178.

参考:www.AlgebraTutor.org

Ms Lindquist という intelligent tutor の設計に関する論文です.このAIは代数の文章問題において,子どもの回答に応じて様々なフィードバックを与えることができます.この論文を読んで思ったことは,指導部分の貧弱さです.一般にこういった AI において,二つの大きな課題があります.一つは診断部分で,子どもの知識状態をいかにモデル化するかが課題になります.もう一つは指導部分で,子どもの知識状態に応じていかなるフィードバックをいかに与えるかです.このAIでは,実際の個人教師をモデル化して,後者の指導部分を設計したそうですが,フィードバックの質があまりよくありませんでした.論文で与えられた指導事例のほとんどにトパーズ効果が見られました(Ms Lindquist よりも Mr Topaze の命名のほうがいいかも/笑).

しかしこの論文を批判するためにここに書き込んだわけではありません(しかも最近ずっと更新がなかったのに).それなりに考えさせてくれ,面白いと思ったからです.考えさせてくれたことは,フィードバックの質と数学教育学の研究の必要性についてです.このAIのフィードバックを見て,トパーズ効果などを知っているひと(あまりいないでしょうけど)や数学教育学の研究者はすぐに問題がわかるでしょう.しかしそうでなければ,子どもに応じたフィードバックであってもあまり適切でないことに気づくのは容易ではないのだなぁと再認識しました.すると,数学教育学側としては,フィードバックの質についてまとめた論文や著書を書く必要があるのかもしれません.

Straesser (2008)

Straesser R. (2008). Review of the proceedings of the 2001, 2003 and 2005 French summer schools in Didactics of Mathematics. Educational Studies in Mathematics. (printing).

この論文は,数日前に online first になったもので,まだ印刷中です.内容は,研究結果ではなく,フランスのサマースクールの概要を簡単に述べ,その研究の質を簡単に論じたものです.この中で,まさにそうだ,と同意できる言明が英語で(これが重要,仏語では色々あるため)あったので,備忘録として記しておくことにしました.二点あります.

一つ目は,「TIMSS や PISA のような大規模な国際比較研究は,数学教授学のフランスコミュニティーでは中心的な役割を果たさない」ということです.その理由は,フランスの数学教授学が理論枠組み,概念枠組み (conceptual, theoretical framework) を作ることを第一に考えているからです.換言すれば,数学教育に関する現象を説明するための言葉を作ることを第一にしているからです.フランス数学教授学をよく知っているひとには当然のことでしょう.

二つ目は,英語圏でしばしば用いられる 「“grounded theory” のアプローチは,フランス数学教授学コミュニティーには容易に受け入れられないであろう」ということです.これも一つ目と同じ理由からです.いくらある事象を詳細に描写したとしても,それはあくまで感覚にもとづいたものであり,新たな概念枠組みを作れば,その描写はまったく別物となってきます.すると,感覚にもとづいた詳細な描写はあまり価値を持ちません.さらに,その描写だけにもとづいて概念枠組みを作るというのも,フランスでは受け入れられないでしょう.なぜならその描写が頼りないものだからです.

以上,簡単ですが.

Margolinas & Wozniak (2008)

Margolinas, C. & Wozniak, F. (2008). Places des documents dans l'élaboration d'un enseignement de mathématiques à l'école primaire. Actes de la XIVème école d'été de didactique des mathématiques. Grenoble: La Pensée Sauvage (in press).

この論文は大変面白かったのですが,今回は論文の内容についての書き込みではありません.論文の脚注に書かれていることを忘れないようにと,まさに備忘録として書かせてもらいます.内容については今度余裕があれば書きます.

私の注目した脚注は,フランスの以前の師範学校 (école normale) についてです.現在ではすべて IUFM という名称の小学校教員,中等学校教員の両方を養成する大学院大学(大学3年時を修了してから入る)のようなものに変わりましたが,それまでは,小学校教員を養成する師範学校というものがありました.そこで知らなかったのですが,この師範学校には附属小学校 (écoles d'application もしくはécole annexe) というものがあり,わが国の教育学部の附属学校とほぼ同じ役割を果たしていたそうです.そこでの教師の性格は若干わが国と異なりますが(教師になるための試験があったりする),maitres formateurs と呼ばれる教師は実習生を指導したりする点はほぼ同じです.

これを見て思ったのは,わが国の教育制度が欧州の制度を参考にしたのだから,よく考えればまあ当然か,ということです,わが国の附属だって昔の師範学校時代からあったでしょうからね.するとおそらく他のヨーロッパ諸国も同じでしょう.まあたわいもないことなのですが,私には重要だったりします.実は少し前に日本のことを紹介する仏語論文を投稿したのですが,内容が...,少し書き換えた方がいいかもというわけです.

linear function

最近,アメリカの高校で扱われる一次関数について調べることがありました.色々な意味で面白かったので,今回はその一つを紹介します.

英語の Linear function という言葉ですが,よく聞く言葉だと思います.日本の学校数学では,「一次関数」に相当するのだと思います.しかし,今日思ったのですが,この linear function という言葉あまりよくないです.

アメリカの高校の教科書などをみると,linear function は, f(x) = ax + b と表現できる関数を指しているようです.ここで私が注目したのは linear という語です.一般に,linear という語は,わが国では,高校で勉強する一次変換や大学初年度の線形写像,線形変換などの「一次」や「線形」に相当すると思います.この「線形」という言葉ですが,線形代数では,写像に対して,f(x + y) = f(x) + f(y) と f(ax) = a f(x) が成り立つ場合を指します.この定義に倣うと,f(x) = ax なら線形写像になりますが,上の米国の linear function (f(x) = ax + b) は線形写像ではありません.つまり,米国の学校数学では,線形写像にならないものを「線形関数 (linear function)」と呼んでいるのです.これにはちょっと驚きました.

もちろん,米国の教科書は関数の input と output の組を座標上で直線として表現できるので,linear と呼んでいるのだと思います.でもこの場合は,関数(もしくは写像)が線形ではなくて,組が座標上で線形に表現できているだけです.すると,もし米国の大学で普通に線形写像や線形変換を習うなら(実際そうですが),高校までに習う linear という言葉と,大学で用いられる linear の言葉の意味が異なってしまいます.もちろん,それで OK というのであれば,それまでのお話ですが.

そこで素朴な疑問は,他国ではどのようにしているのか,です.二つ紹介しましょう.まずわが国です.日本では,この辺を上手くやっている感じがします.中学校では f(x) = ax + b を「一次関数」と呼び,この「一次」は変数の指数を指しています.つまり,関数が線形であるかどうかには触れていません.英語であれば,function of first degree とでも訳せるのでしょうか.一方,「一次変換」は「一次」を使っていますが,変換自体は線形です.つまり,この「一次」の語は,linear とも解釈できるし(普通はこの意味だと思います),f(X) = AX で X の指数が一次だからとも解釈できます.そして,大学では主に「線形」の言葉が用いられると思います.したがって,線形 (linear) の言葉は,本来の意味でしか用いられないと言えます.

次に,数学の国フランス.フランスの学校数学では,fonction lineaire (線形関数)というと f(x) = ax のことを指します.一方,f(x) = ax + b は,fonction affine (アフィン関数)と呼ばれます.前者は写像として線形であり,lineaire (英語で linear) の意味が中等教育の数学と大学の数学と一貫しています.この国も,数学において矛盾が生じないようになっていることがわかります.

このように二つの国だけを見ると,アメリカの場合が特殊なように見えます(実際はどうなのでしょう?).たいした問題ではないのかもしれませんが,少し混乱を招きそうな気もします.また,今回取り上げた点を除いても,アメリカの教科書の「線形関数 (linear function)」に関する章は,直線の方程式とごっちゃ混ぜになっていたりして,生徒が関数を理解するのは難しそうに感じました.

Mesquita (1998)

Mesquita, A. L. (1998). On conceptual obstacles linked with external representation. in geometry. Journal of Mathematical Behavior, 17 (2), 183-195.

短く,読みやすい非常に良い論文でした.著者は,フランス・ストラスブールの Duval らの研究グループの一員です.幾何,特に図形についての研究を主に進めてきた方です.研究の内容は大まかに知っていましたが,論文をあまり深く読んだことはありませんでした(おそらく一本ぐらいはあるけど,忘れてしまった).今回はひょんなことから読むことになりました.

論文では,図形・図の機能と役割について非常にうまくまとめられています.新しいものはあまりなく,レビュー的要素が強いですが,図形について日頃思っていることを,いい言葉を導入し,うまく説明しています.表現 (representation) に関する研究では,Duval の register の概念を用いるといろいろなことを非常にうまく説明できます.しかし,この論文では,それとはまた少し異なった視点,心理的・文化的な視点にも焦点を当てています.以下,簡単に,特に用いられている用語に注目して,内容を紹介します.

1. 「幾何学的空間 (geometrical space)」と「表象的空間 (representative space)」
前者は,幾何的な,抽象的な,幾何対象が存在する空間.後者は,われわれの表現(表象)や感覚の枠組みとなる空間(紙上や現実の空間など)である.この区分は,今日的には,数学教育関係者はみな知っていることと思いますが,これらはポアンカレの『科学と仮説』で論じられているそうです.つまり,私はこの本をちゃんと読んでいなかったということです.

2. 表現の典型性
認知心理学の研究を援用し,図的表現には典型性があることを示しています.つまり,数学的にはほぼ同値であっても,典型的な (typical) 図や原型的な (prototypical) 図が存在し,人間がそれ以外の図を認識しづらいことがあるということです.これもよく知られたことだと思いますが,そのベースを教えてくれます.

3. 表現の役割
描写的 (descriptive) 役割と発見的 (heuristical) 役割が紹介されています.まあよく知られたことです.

4. 表現の本性
表現の扱いの点からすると,表現は「対象 (object)」と「イラスト (illustration)」に分けられるとします.前者は,その表現自体を幾何的な推論に利用できたり,新たな関係・性質を得たりすることができる表現です.後者は,それらができないものです.例えば,ある幾何学的な対象をある程度の形は示しているが,角度や長さなどがいい加減に示されている図(正方形が台形のように描かれている図など)が,イラストにあたります.
この区分については,これまであまり考えたことがなかったですが,非常に面白いです.前者と後者は,両方とも図的表現ですが,register (Duval の意味で)として異なります.実際,使える操作が違います.さらに,register では,図的 register の要素の議論がありますが,この場合は,長さと角が異なる程度で非常に似た要素を持ちますが,register としては大きく異なるのです.
なお,学校現場でもこの性質を利用する場面がたまにみられます.図に頼らせないために,生徒に上の意味での「イラスト」を与えることがあります.これは,問題を解くために図的な register を使わせないようにしていると説明できます.

以上です.

この論文は本当に読みやすく,かつ図的表現に関する基礎的なものが沢山出てきますので,修士課程の院生などが勉強するのに良いのではないでしょうか.

追記:私は,representation の訳として「表現」という言葉をよく使いますが,「表象」などとも訳されたりすることもあるようです.私は,「表象」というとなんとなく難しそうなので基本的に使いません,私にとっての,representation とは,何か抽象的なものを示すために,人間の感覚(視覚や聴覚など)によって認識できるように利用された「もの」です.記号や図をはじめ,ジェスチャー,絵画などなど,すべて「表現」になります.

Artigue & Houdement (2007)

Artigue, M. & Houdement, C. (2007). Problem solving in France: didactic and curricular perspectives. ZDM, 39, 365-382.

ZDM の 2007 年 39 巻は問題解決 (Problem solving) の特集でした.世界各国の問題解決の研究と実践に関する現状が報告されています.この論文はフランスの場合を紹介したものです.日本の場合は,日野先生により報告されています.

まずこの論文に関心を持った理由は,フランス関係の論文ということもありますが,それよりも「フランスにおける問題解決」というタイトルでした.そもそもフランスには「問題解決」という語はありません.resolution de probleme という表現はありますが,「問題を解くこと」しか意味しません.さらに,フランスでは日本のいわゆる「問題解決」と似た問題意識はありますが,数学教授学の研究の枠組みでは,それに特別な名称がついて扱われることはありません.では,いわゆる「問題解決」は,数学教授学もしくはフランスの数学教育の視座からすれば,どのように捉えられるのでしょうか?この問いは,実は私が非常に関心を持って取り組んでいる問いなのです(仕事の合間に).この論文には,この問いへの示唆が大変多くみられます.

では,論文の内容を簡単に紹介しましょう.論文では,いわゆる「問題解決」がフランスでいかに扱われてきたのか,数学教授学の研究とフランスのカリキュラム等の実践のそれぞれの視点から,述べられています.前者に関しては,教授学的状況理論 (TDS),人間学理論 (ATD),そして Vergnaud の概念フィールドにおける,問題 (problem) の位置付けなどを示しています.これらの理論では,問題が常に理論の中心に位置付けられることが述べられています.このことは,Vergnaud の「問題は知識の源である (the problem is a source of knowledge)」という言葉にもよくあらわれていると思います.

一方,後者の視点である実践やフランスの学習指導要領においては,「問題解決」という言葉は用いられませんが,70年代後半あたりからわが国と非常に似た活動がなされてきました.例えば,1978 年の学習指導要領では,situation-probleme (問題状況もしくは問題場面)という語が用いられています.これは,複数の解答が可能なオープンな問題や現実の問題を利用するものです.そして,それ以降も,situation-probleme やわが国で言われるいわゆる数学的活動,数学的思考を重視した数学教育が進められてきたことが,この論文からわかります.

この論文で特に面白かった点が2点あります.一点目は,フランスにおける数学教授学の研究と数学教育の実践もしくは実践研究 (action-research) の連携がいかになされてきたか示されているところです.これまで,フランスの実践研究の報告をあまり読んだことがなかったからというのもありますが,思っていた以上に連携が図られていることがわかります.

二点目は,オープンな問題と situation-probleme の違いです.これは,実は最近これだけをテーマに論文を書こうと思っていたものでした.論文で示されている違いは,オープンな問題に対する捉え方が若干異なりますが,私の考えとほぼ同じで嬉しくなりました.この点がまとめられている部分を引用しましょう.

「このように,オープンな問題と problem-situations は,同じ教育的な目的を持つわけではなく,同じように扱われるわけではない.problem-situations においては,目標とされることは,生徒による新たな数学知識の構築であり,TDS とTool-object 相互作用 の影響は明らかである.オープンな問題においては,重要なのは過程である.つまり試行と探究から証明までの数学的活動の様々な側面を含む研究経験である」(p. 373)

この他にも特筆すべきことは,色々あるのですが,長くなるのでここまでにします.

今回の論文は厳密な意味での研究論文ではないので,わかりやすいということもありましたが,アルティーグ先生の論文はいつも非常に明快で大変読みやすい.もう一本最近読んだ論文があるのですが,そちらも大変読みやすく,かつ大変面白かったです.近いうちに,そちらの感想も書き込まねばと思っています.

博士の学位審査

これまでのブログは,論文に対するコメントが主でしたが,今回はちょっと別のことについて私見を述べたいと思います.それは,博士の学位審査についてです.まあ備忘録の一環だと思って適当に読んでいただければ幸いです.

そもそも,このことを書こうと思った原因は,最近の医学博士を取得のために謝礼を払っていたという記事です.
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080319-OYT1T00870.htm

文部科学省は「透明性を」なぞと偉そうなことを言っていますが,これは明らかに制度の問題だと思います.医学の博士号を取るのは,医者になれば非常に簡単だとよく聞きますが,医学部に限らず博士の学位審査を内部のもののみで進める制度が問題でしょう.しかも,多くの場合に担当教官である主査が,学位の合否に非常に強い権限をもっている.このような制度では,学位を出してくれた先生に金を包むのも当然かと思います.まあ謝礼を払わなくとも,学位を取った者は担当教官に非常に感謝するでしょう,人間なら.

そこで,他の国ではどうやっているのか簡単に紹介しましょう.アメリカ系の国では,日本と同じような制度のところが多いかと思います.そのため,ディプロマミルが生じたり,大学によって博士の水準が異なったりしています.現在,私が勤務している米国の大学は,研究大学としてある程度有名なので,博士の水準は低くないですが,審査は学内者のみで行なわれます.

一方,ヨーロッパの多くの国は,学外者を審査員に入れることが義務付けられています.私の聞いた限りの国を言えば,フランス,スペイン,イタリア,オランダ,スウェーデンで,このような制度を採用しているそうです.おそらく,それ以外のヨーロッパの国も制度としてはあまり変わらないでしょう.では,具体的にフランスの場合を紹介しましょう.

フランスの学位審査は一般に 5 人から 7 人の審査員によって行なわれます.この中に,担当教官も含まれますが,特別の権限をもつ審査員が三人います.審査会を仕切り審査報告書を書く座長 (president) が一人と,レフリー (rapporteur) と呼ばれる二人が,その三人です.特にこのレフリーが合否の権限をほぼ握っていると言ってよいと思います.この二人は,提出された論文を査読し,報告書を書き,審査会を開いてよいかどうか判断します.一人でも,駄目だと判断すれば,次の段階には進めません.一方,ここで両者から OK が出れば,後は2時間程度の公開審査(発表約1時間,質疑約1時間)と審査員のみの密室会談を経て,無事学位の授与となります.

ここで重要なのは,学外からの審査員です(海外から呼ぶことも多い).審査員の内訳は,3分の1以上がまず学外者でなければなりません.さらに,レフリーは両者とも学外者でなければなりません(私のときは,フランスの別の大学から一人とイタリアから一人).レフリーの二人が合否の権限をほぼ握っているのですから,日本やアメリカのように学内だけでことを終わらせることができないのです.しかも,担当教官は,審査員の一人ではありますが,ほとんど権限を持っていません.もちろん,息のかかった外部者を審査員に入れ,学位を出すことも可能でしょう.しかし,公開審査が義務付けられていれば,あまりあからさまにはできません.大抵は,博士を取る者の将来を考え,同じ領域の研究者,しかもできるだけ有名な研究者を審査員に呼びます.つまり,博士論文の内容を知ってもらう,そしてコメントをもらうことが,学位審査の目的にもなっているのです.

ヨーロッパの他の国も制度の細かなところは少し違うかもしれませんが,根本はフランスと同じだと思います.そう言えば,ボスニアの知り合いは,修士の審査に他国から人を呼んだと言っていました.ちなみに,フランスでは,主な審査を学外者が行なうため,大学によって博士のレベルが異なるということは少ないです.日本やアメリカのように大学が乱立していないという理由もありますが.

このように世界情勢を見てみると,日本の学位審査の制度はもう変えないと駄目ですね.ただでさえ,おかしな論文で博士の学位を乱発している,と言われる大学があるのですから.こういうものは各大学の良心にまかせずに,中央から改革するしかないと思います.担当教官の権限を弱めることと,学外者の審査員を義務化し,権限を強めることですね.世界的にみて非常に特殊なアメリカの真似をしているとレベルがどんどん下がってしまいます.アメリカは国の特殊性のためこのような制度しかできない,ということにわれわれは気づかないといけないと思います.中央が存在せず,初等・中等教育の教育内容までが州の中のさらに小さな各地域 (district) によって異なるような国です.学位審査の制度はやはりおのおのの大学レベルでしか決定できないのです.

追記:ちなみに,フランスの博士論文は,現在ウェブ上で無料公開されています.私の大学では,このサイトに博士論文を登録しなければ学位がでませんでした.

Margolinas et al. (2005)

Margolinas, C., Coulange, L., & Bessot, A. (2005). What can the teacher learn in the classroom? Educational Studies in Mathematics, 59, 205-234.

一般に,わが国の教師は,他国と比べると教える技術が高いと思います.それは大学などで行なわれる将来の教師を育てる教員養成の賜物というよりも,教師になったあとの教師教育,教員研修の賜物でしょう.わが国の教師教育は,主に,授業研究や校内研修によっています(もちろん大学等での研修もあると思いますが).そして特に授業研究は,近年,教師教育のひとつの方法として米国で注目を浴びており,授業研究を導入する試みまでなされています.しかしながら,世界各国においては教育制度が異なり,教員研修,教師教育の方法も異なります.すると,単に日本の方法を直接輸出することはできません.輸出しても定着は難しいのではないでしょうか.もしかすると,米国のように教員研修の方法があまり確立されていない国ならまだ輸出しやすいのかもしれませんが.

そのような中で,数学教育研究の関心のひとつは,教師教育,教員研修において実際にどこでなにが教師の学習をおこしているのか,を知ることです.授業研究などを実施することにおいて,教師はどこかで教える技術を学習していることは確かでしょう.しかし,具体的に何が,と問われれば明確に答えられません.これに明確に答えることができれば,「授業研究」という名称は使われない,他国の教師教育の方法とどの要素が共通しているのか示すことができます.そして,他国の教師教育の方法をいかに変更すれば,授業研究と同様の効果が得られるか知る手がかりが得られます.実際,「授業研究」は,いまのところ,「機械は動くけど,なぜかはわからない」という域を出ていないからです.

と,前置きが長くなりましたが,この論文は,これに類似した問題意識より,いかに教師が学習をするか,を分析しています.この論文を読んで,同じ枠組みで日本の授業研究による教師の学習を分析してみたいと思いました.どのようなところで学習が生じているか示せると思います.

なお,論文は様々な点で面白かったのですが,ここでは,学習の原理と教師の milieu の水準について書き残しておきます.まず学習の必要十分条件が設定されています.この点をきっちり示しておかないと,何をもって学習が生じたか主張することができません.論文で与えられた事例では,すべての条件を満たしていないため,「一時的な学習」,「局所的な学習」と呼ばれています.以下がその条件です.

1) 反目的 milieu の原理
2) 反省の原理
3) 有用性の原理
4) 無知自覚の原理

これらは,議論の余地もありますが,フランス数学教授学の枠組みにいる研究者にとっては,それほど変なものではないでしょう.思うに,教師に限らず,子どもを含めた学習に関する研究において,学習の根本原理を明確に示していないものが多いと思います.そのため,何をもって学習が生じたか明確に示すことができていません.心理学や認知科学などの研究では,事前と事後のテストで統制群と実験群の結果を比較する古典的な手法がとられることがよくあります.しかし,当然ながら,この方法では,いかに何が学習を生じさせたのか示すことができません.示されることは,用いた教育法がよくわからないけど結果的に通常の方法より多く学習を生じさせることができた,ということのみです.具体的にどこで,そしてなぜという問いには答えてくれません.すると,やはり上のような原理を明確に設定することが肝要になります.

次に教師の活動を水準の異なる milieu で特徴づけているところは,非常に面白かったです.これにより,教師が常にいろいろな milieu の影響を受けながら授業を準備し,授業を進めていることがうまく説明されています.これらは,Margolinas (2004) の記事でも書きましたが,それぞれの水準において異なる知識が必要になり,それぞれの知識を獲得するためには異なった教育が必要になることが示唆されます.

水準についての詳しい説明は,この論文で与えられていませんが.Margolinas (2002) に詳しいです(仏語ですが).ここでは異なる水準のみ,以下に示します.

+3 教授・学習についての価値・考え
+2 大局的教授計画
+1 局所的教授計画
0 教授行為
-1 生徒の活動の観察

(+3) は,わが国で「教育観」と呼ばれるものや,指導要領で示されたものなどに関わる milieu. (+2) は,長いスパンで見た教育計画に関わる milieu です.例えば,学年の教育計画に関わるものです.(+1) は,短いスパンで見た教育計画に関わる milieu です.例えば,単元,もしくは一つの授業の教育計画に関わるものです.(0) は,生徒との相互作用や教授行為における意思決定などに関わる milieu です.つまり,実際に教える行為に関わるものです.(-1) は,生徒の観察に関わる milieu です.つまり,生徒が生徒の milieu と相互作用している状態 (教師の milieu) に関するものです.それぞれは,独立しているわけではありません,授業前中後においてその場その場で異なる水準の活動がなされます.さらにマイナス方向には,生徒の活動をより詳細に捉えることにより,水準を追加することもできます.

ところで,わが国では,これらの水準に類似したものがある気がします.そう,指導案です.多くの指導案がこの4つの水準をカバーしているのではないでしょうか.(0) と (-1) は多くが表で示されています.面白いですね.ますます詳細に分析したくなります.実は,数学の教授と学習に関する理論の構築を目指したフランス数学教授学と実践的な日本の数学教育には,多くの共通点が見られます.これ以外にも色々あります.長くなりましたので,それついてはまた今度書きます(仏語で書いたものがあるのですが).

Margolinas (2004)

Margolinas, C. (2004). Modeling the teacher's situation in the classroom. In H. Fujita, et al. (Eds.) Proceedings of the Ninth International Congress on Mathematics Education (pp. 171-173). Kluwer Academic Publishers.

この論文は, ICME9 の論文集にあるものです.2000年に日本で開催された ICME です.Regular lecture の論文ですが,3ページと非常に短いので,論文というよりは要旨のようなものです.そんな短い文章ですが,いくつか思ったところがありました.それをここに記録しておきましょう.

1. Devolution について
教授学的状況理論で鍵となる概念に devolution というものがあります.教師が生徒に問題に取り組むように責任を移す過程を指します.一般には,この devolution の語は,歴史などにおいて,王様が権力を司法や立法の機関に移すこと(つまり委譲)を指します.教授学的状況理論では,この意味をまねて,devolution の語を使っています.このため,この邦訳にも,「委譲」という語を使ってきました.なお,このお話しはなんとなく知っていたのですが,実際にこのことが書かれたものに出くわしたことがありませんでした.この論文が初めてです.そういう意味で,ここに記録しておこうと思ったわけです.

2. 制約のレベルと教師の知識のレベルについて
この 3 ページの論文では詳細が書けないので,論文が何の話をしているのかわからないと思います.ここでは,milieu の語が使われていませんが,教師の milieu を異なるレベル(局所的なものから大局的なもの)で捉えることが中心に書かれています.教師の実践を異なるレベルで捉えることは,教授学的状況理論だけでなく,人間学理論などでも近年よく見られます.私は,2001 年に初めて異なるレベルに関する講義を聴きました.そのときは,あまりよくわからなかったのですが,最近だいぶその必要性を感じてきました.特に,この論文を読み,再度,やはり教師の実践を分析するなら異なるレベルを考慮する必要がある,と思ったのでした.

Schoenfeld (2006)

Schoenfeld, A.H. (2006). Problem solving from crandle to grave. Annales de Didactique et de Sciences Cognitives, vol. 11, 41-73.

世界的に著名な米国人研究者 Schoenfeld による論文です.この論文は,いろいろな意味で大変勉強になりました.ちなみに,この雑誌はフランスのものなので英語圏では非常にマイナーですが,いい論文がよく出ています.この論文と同じ巻には Sierpinska などフランス以外の研究者の論文が集められており,ちょっとした特集みたいになっていました.

論文の内容は,教師の意思決定,もしくは教授 (teaching) のモデル化についてですが,これまでの研究をまとめたものという感じです.特に Schoenfeld (1998) で導入された theory of teaching-in-context が中心になっています (context の話は少ないですが).簡単に言えば,問題解決における意思決定(教師の意思決定を含む)が「知識」「目標」「信念」「意思決定」の4つの要素でモデル化でき,説明できるとするものです.このことを説得しようとしている論文です.以下,私の考えた点です.

1.メカニズムのモデル化
問題解決における意思決定のメカニズムをモデル化しようとしています.Schoenfeld (1998) で詳しくでていますが,「理論」や「モデル」の言葉の利用は,フランス数学教授学と似たおり,理論やモデルの構築を目指すところにおいて,数学教授学と同じような問題意識にもとづいていると思います.ええこっちゃです.

2.モデル化の対象
この論文を読んで,数学教授学とモデル化の対象,何のメカニズムをモデル化しているのか,が異なることがはっきりしました.米国の数学教育研究は,心理学や認知科学の影響が強いためか,モデル化の対象が個人・主体になっています.この論文でも,意思決定を行なう主体のメカニズムをモデル化しているようです.一方,数学教授学では,心理学とは異なり,主体のメカニズムをモデル化しません.Brousseau による教授学的状況理論であれば,状況をモデル化し,主体はモデルにおける一つの構成要素にすぎません.これは,主体が環境に適応しながら学習すると考えれば,その環境の本性を知らずには何もできないと考えるからです.この点において,それぞれは非常に異なる理論です.個人的には,個人をモデル化しても,あまり教育には役立たないと思います.なぜなら,環境(広い意味で)に個人が知識を構築するためのすべての要素があると考えているからです.

3.理論の役割
この論文では,Schoenfeld の理論が非常に多くのことを説明できると述べています.しかし,理論の役割はなんでしょう?その役割は,説明することと予見することだと思います.物理などの理論を見てもそうであるように,このふたつが理論には不可欠でしょう.説明だけでは,人間がまだそのメカニズムを知らない,もしくは科学によって説明できていない現象を説明する新興宗教の教義と同じです(言い過ぎかもしれませんが).つまり,この論文では,後者の予見について,あまり可能にしてくれそうにない感じがしました.論文では,このことに触れられていません.しかし,構成要素間の関係がまったく明確でないことや,構成要素のどれもなかなか明確に同定できそうにないことから,予見される行動を引き起こす状況を設定することは,難しいのではないかと思いました.もちろん,教育においてこれを可能にする理論構築は非常に難しいですが,教授学的状況理論などはその難しいところをある程度可能にしたと思います.

4.数学知識の位置付け
この論文で示されている理論では,数学知識はかすれて見えません.理論自体には考慮されていません.筆者が言っているように,問題解決一般における意思決定なので,数学知識にこだわらないというわけです.しかしそうであれば,当然ながら,この理論を用いてある現象を説明しても,その現象の数学概念や知識の視点からの意味は何も教えてくれません.この点が,また数学教授学と大きく異なる点です.筆者はもともと数学の研究者です.心理学的な理論ではなく,数学知識に固有な理論を構築して欲しかったです.残念.

5.教師の意思決定研究について
米国において,教師の意思決定の研究は,80年代に沢山やられ,その後下火になっています.その理由はよく知りませんが,扱う内容に特化しなければ,もしくは特定の視点を入れないと難しいと判断されたのかと勝手に推測しています.一方,フランスの数学教授学でも,教師の意思決定や行動の研究は今でもやられています.例えば,Margolinas et al. (2005) は,ブルソーの structuration de milieu を発展させた枠組みを使って分析し,米国とは全く異なる路線を進んでいます.まだちゃんと読んでいませんが,近いうちに読もうと思っています.

と,長くなりましたが,面白かったということです.