Brousseau (2005)

Brousseau, G. (2005). The Study of the Didactical Conditions of School Learning in Mathematics. in M.H.G. Hoffmann, J. Lenhard and F. Seeger (eds.) Activity and Sign - Grounding Mathematics Education (pp. 159-168). Springer.

ブルソーの論文です.まだ斜め読みしかしてないのですが,重要なポイントがいくつかあったので,そのひとつを書きとめておきます.内容自体は,教授学的状況理論の前提となっていることが述べられています.この理論を理解するために,非常によい論文だと思います.

この備忘録に書き留めておこうと思ったのは,仏語の connaissance と savoir の説明が明快に与えられていたからです.それは,次のように与えられています.前者は,「意思決定や親密な関係を持つという意味で理解するための手段としての知識」.後者は,「C-knowledge [前者の知識] を同定し,まとめ,伝達するための文化的・社会的手段としての知識」だそうです (p. 168).目的と手段によって区分するのはうまいと思いました.これまで「私的な知識」と「公的な知識」という訳もありましたが,この方がピンとくると思います.

あと,これらがラテン語を起源としており,この区分は,仏語のみならず,スペイン語,イタリア語にも存在するそうです(英語にはないですが).

この論文は,またちゃんと読んで,ここに追加します.


追加(2008/1/21):数学教授学,特に教授学的状況理論の原理を principles (pp. 164-165) という形で示しています.これらの原理は,理論に整合性を持たせるための原理だそうです.備忘録として,ここに書き留めておきたいと思います.原理自体は直訳ですので,日本語が変でも勘弁してください.またそれぞれの原理は私の解釈が沢山入っています.悪しからず.

原理1:「数学教授学は,目標とされる知識に固有な教授と学習の条件を研究することに焦点をあてる」

これは,まさに数学教授学の定義です.ここで重要なのは「知識に固有な」というところです.世界各国の数学教育研究を見ると,知識に固有でない要素を細かく研究しているものがあるように思えます.この点,日本はだいぶよいのではないでしょうか(理論化には問題ありですが).ちなみに,この定義は,この論文の他の場所でもしばしば言及されています.「教授と学習」の代わりに単に「知識の広がること(diffusion)」と言われることも多いです.

原理2:「ある知識を行動の中に置くことに通用する条件は,お互いに独立して振る舞うことはない」

これは,教授学的状況理論が前提としている原理です.つまり,教師や子ども,知識を個々に分析するのでは,実際の活動の中での教授と学習の条件を研究するためには十分ではないとするものです.それらを総合的に考慮しなければならないということです.この点は,非常に重要です.これまで「子どもの信念」などと人間の内面を分析しようとした数学教育の研究が多かったと思います.教師に関しても同じです.教師の信念や知識などの研究は多くあるでしょう.そしてそのために心理学的なアプローチを用いてきたと思います.実際,内面を分析するのであれば,心理学の領域でしょう.しかし,この原理は,心理学的な発想では,個々の内面の分析では,不十分だと言っているわけです.そのため,数学教授学では,ここの内面は分析せず,子どもや教師は状況のひとつの構成要素になるのです.物理の自由落下運動の研究をする際に,物体の中身を分析しないのと同じです.

原理3:「支持されている一般モデルは,ゲームの経済的理論のモデルである」

これは,状況の構成要素である,特に子どもが,その環境に応じて合理的にベストを尽くして,経済的に行動しているとするものです.つまり,その環境の中では,常に一番よい,経済的だと思う(無意識かもしれないが)選択をしているということです.このことは,たとえ観察者には不合理に見えるかもしれない行動も,その背後では合理的なメカニズムが存在していることを示唆しているとも言えると思います.例えば,ある状況での行動と別の状況での行動が完全に矛盾するものであっても,子どもがそれぞれの行動を実行する合理的な理由がどこかにあるのです.

原理4:「C は状況 S を最適に解決するものである」

ここで C は「概念 (concept)」です.これは,数学の概念自体が,状況に固有であるとするものです.「数学知識=状況」と捉えていると言ってよいかと思います.さらに数学の概念は,ある状況に解決の方法として現れた状態でしか分析できないと言っています(教授学的状況理論では).

原理5:「これらの状況を色々なふうに組み合わされ,そして分解することができる」

これは,状況というものが,理論的構成物として,大雑把にもそして非常に細かくも捉えることができるとするものです.つまり,分析の granularity の問題において.異なったように捉えることができるというわけです.例えば,教授学的状況や亜教授学的状況と言うカテゴリーで非常に大雑把に状況を捉えることもできれば,action, formulation, validation, institutionalisation, devolution などのそれぞれの状況ように小さな状況として捉えることもできます.

原理6a:「どんな数学概念も,それを特徴づける少なくとも一つの状況をもつ」
原理6b:「どんな状況もその解決を生み出すために不可欠な数学知識の集まりを決定する」

これらは,これまで「認識論的前提 (epistemological hypothesis)」と呼ばれてきた研究の前提となる仮説につながるものです.つまり,どんな数学概念も歴史において生じてきたわけなので,その概念が生じるような状況(特に亜教授学的な)が必ず一つは存在するはずだ,とするものです.そのような状況は「基本状況 (fundamental situation)」と呼ばれます.この論文では,いくつかの種類の状況 (action, formulation, validation, etc.) を集めたものが,この基本状況になると述べられています.

Artigue (1998)

Artigue, M. (1998). Research in mathematics education through the eyes of mathematicians. In A. Sierpinska & J. Kilpatrick (Eds.) Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity (pp. 477-489). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

この論文は大変面白かった.Artigue の論文はいつも非常に明快で読みやすいです.論文では,主にふたつの主題について述べています.前半では,解析の場合を例にフランスにおける数学教育(研究)の歴史.後半では,数学教授学が数学者コミュニティの中でどのようにその立場を確立してきたか,そして現在数学者とどのような関係になっているか,です.

前半に関しては,1900年頃,1950, 60 年代,そしてその後の3つの時期について述べています.1900 年頃に関しては,数学者コミュニティにおいて数学教育が盛んに議論されてきたこと,L'enseignement mathématique という雑誌が 1899 年から発行されたこと,数学者が主に教育課程の作成に従事していたことが主な内容になっています.1950, 60 年代に関しては,現代化のときですが,数学者や心理学者,教育学者が教育課程の作成に関わり,そして失敗に終わったこと.そして,現代化後に関しては,数学者や心理学者,教育学者のもつ知識体系では教育システムの複雑さを理解するのには不十分だと気づき始めたこと,その反動,結果として IREM が作られたこと,数学教授学が生まれたことなどが紹介されています.

後半では,まず数学教授学が数学の一部として数学者にも認められるようになってきた(大学にポストができてきた)と同時に,数学者が数学教授学を評価することが難しくなってきたことに触れられています.最初の頃は,数学者も数学教授学を理解しようとし,理解していたそうですが,数学教授学自体が発展するにつれ,それが難しくなってきたそうです.特に,現代化以降,そして数学教授学の誕生以降,数学者が数学教育の中心から外れて,数学教育の周辺領域を扱うことが多くなってきたそうです.

結論は,数学教授学万歳というものではなく,今後も数学教授学がひとつの「学」としての数学教育研究のアイデンティティを保つために,周辺領域の研究者や教師と協力していく必要があるとしています.実際,数学教授学の知識体系の有効性を示すためにも,数学教育を改善するためにも,これは必須でしょう.

追記:L'enseignement mathématique の論文は,創刊からすべて次の web page で読むことができます.ポアンカレなど有名な数学者の論文もあり面白いです.仏語ですが・・・.http://retro.seals.ch/digbib/fr/vollist?UID=ensmat-001

Deakin (1990)

Deakin, M. A. B. (1990). From Pappus to today: The history of a proof. The Mathematical Gazette, Vol. 74, No. 467, 6-11.

この論文は,ユークリッド幾何の二等辺三角形の底角の定理の証明について論じたものです.パッポスのことを調べていて見つけました.これをみると昔からいろいろな方法が議論されてきたことがわかります.

この中で「へぇ~」と思ったことは,Legendre (1794) と Lacroix (1799) が同じような時期に Eléments de géométrie という同じ名称の本を出していることです.おそらく幾何学の教科書だと思います.このルジャンドルの本では,底角の定理の証明に三辺相等を用いているそうです.つまり,三辺相等が二辺夾角から底角の定理を使わずに導いているということです.一度読んでみたいものです.

Olivero & Robutti (2007)

Olivero, F. & Robutti, O. (2007). Measuring in dynamic geometry environments as a tool for conjecturing and proving. International Journal of Computers for Mathematical Learning, 12, 135-156.

この論文は,Cabri などの動的作図ツール (DGS) における測定ツールがどのように利用されうるか分析したものです.特に,推測と証明におけるものを扱っています.なかなか面白いです.

論文では,まず測定の様式を規定します.ラボルドが昔から言っている,spacio-graphic と theoretical な世界(本論文では field の語が使われている)の間を,どっちの方向に移動させる測定であるかにより様式を二分します.そしてそれぞれの測定において,幾何の問題を DGS を用いて扱う際の測定の役割に応じてさらに細分し,合計で5つの様式を規定しています.データの分析では,これらの様式が実際に学習者による DGS の利用にいかに見られるか示しています.分析は若干大雑把な感じはしますが,まあ中心は理論的なものなので構わないのでしょう.

最初に思ったことは,これらの様式は DGS に特有のものですが,紙と鉛筆の学習環境においても似たもの(おそらく数が少ないかもしれないが)が考えられるのでは,ということです.この論文では,DGS の場合だけで,他の環境における測定に関する参考文献があまり出ていません.Chazan (1993) ぐらいです.あまりやられていない研究なのでしょうか?そんなことはない気がしますが.まあ具体的に何かを分析して確かめてみると面白いでしょう.

もうひとつ思ったことは,ラボルドの枠組みに関してです.この論文で用いられている spacio-graphic と theoretical な世界間の行き来は,昔から知っていましたが,改めて非常にシンプルで便利だと思いました.semiotic register とはまた異なった次元のものを,特に cognitive な視点から示してくれる感じがします.私も一度何かに使ってみようかと思います.ところで,この枠組みの仏語での参考文献は,有名な論文の Laborde & Capponi (1994) ですが,この論文を見ると英語でも色々出ているようです.Laborde (2004) に沢山出ているみたいです.これはまだ読んでいませんが,読んでみたいですね.本なので web でダウンロードできないのが面倒ですが・・・.

あと,この論文は,イタリア研究グループによるものです.以前の研究では,同様のことをドラッグ機能の場合で分析したそうです.イタリアの研究は,この論文のように数学的な本性をしっかりと考慮しているものが多く面白いです.数学が中心にあることがよくわかります.

追記:先々週あたりに数学教育学の研究における「規範性」についての議論があったのですが,それについてあとから思ったこと.近年のヨーロッパおよび米国の研究は,規範性を考慮しないものが非常に多い気がします.今回の論文ももちろんそうです.そんな中において,フランスの数学教授学やイタリアの研究の特徴は,特に米国の多くの研究と比較して,数学知識の分析を研究の中心に置いているところだと思います.

Bosch & Chevallard (1999): ostensif

Bosch M., & Chevallard, Y. (1999), Ostensifs et sensibilité aux ostensifs dans l'activité mathématique, Recherches en Didactique des Mathématiques, 19/1, 79-119, Grenoble : La Pensée Sauvage.

以前から ostensif って何だろうと思っていました.それがこの論文で扱われていました.全くちゃんと読んでいませんが(斜め読みもしていない),失念しないためにその意味だけを書いておきます.

les objets ostensifs は,知覚できる他人に見せたりできる物質的な対象を意味するそうです.一方, les objets ostensifs は,アイデアや直観,概念のような,見たり言ったり聞いたり知覚したりすることができないけど, institution には確実に存在する対象のことです.

これらの例として挙げられているのは,「log」 という表記や「対数」という単語は,前者であり,対数の概念や後者になります.何か問題を解いたりするときには,これら両方が使われる訳です.

Sierpinska, A. & Kilpatrick, J. (Eds.) (1998)

Sierpinska, A. & Kilpatrick, J. (Eds.) (1998). Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity. Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

この本のいくつかの論文には,以前の記事で触れました.まだすべてを読んでませんが,最初と最後にある会議の議事録・まとめは非常に面白いです.フランスとアメリカの研究はあまり相容れなさそうです.異見が常に対立している感じでした(笑).そもそも,数学教育の研究の目的・対象・方法が,国によってこれだけ異なってくるというのは非常に面白いです.

印象としては,scientific という面では,やはりフランスが数歩前を行っている感じです.おそらく,数学の教授と学習に関する現象を説明する知識の構築というところに焦点が絞られているからだと思います.研究は,知識を積み重ねていくことを前提としていますが,100 年後 200 年後に,数学教育の研究がどうなっているのでしょう.科学的でない研究は,100 年前と変わらないことをやっている可能性があります.科学的であるはずのフランスの教授学的状況理論などは,どうなっているのでしょうかね.楽しみです.新たな理論の出現によって完全に否定されるか,古典力学と相対性理論の関係のようにもとの理論の有効範囲が明確になるか,だとは思いますが.

今日読んだ中で,少々ゴシップ的ですが,面白かったところ紹介します.数学教育というよりも心理学の研究だと思いますが,米国で 90 年代あたりからやられている研究で situated cognition というものがあります.以下,フランス人の反応です.ちなみに,下の GV は,フランスの有名な認知心理学者,兼数学教授学者です.

CM : 「そんなことはフランスでは 20 年前からやられている」
GV : 「situated cognition のアイデアは当たり前だ.当然ながらすべての知識は,状況に依存し,文脈がある.」

もう一点,面白かったところ.数学教育研究における理論と実践について,フランス人軍団がそれを明確に分けるのに対し,その他はその連続性を主張したそうです.議論の中で teacher-researcher と action-research という理論と実践の両方に関わる語が出たそうですが,その際,仏人軍団の一人がこれらを痛烈に批判したそうです.その際に出たアナロジーが以下です.

NB : 「自分本人の精神分析医になれないのと同様,teacher-researcher にはなれない」

私は,数学教授学寄りなので,その通りだと思いますが,他国の研究者は「本人だから知っていることがある」と teacher-researcher が必要のようなことを言っています.この点は,数学教育研究をいかなる「科学」として扱っているかの差が出ているように思えます.つまり,経験主義的に目に見える意識していることを収集して研究とする立場と,それらは illusion de la tranceparence としてそれらを統制している理論を発見する立場です.後者の立場の人にとっては,上の発言は,言い得て妙でしょう.

Vergnaud, G. (1983)

Vergnaud, G. (1983). Pourquoi une perspective épistémologique est-elle nécessaire pour la recherche sur l'enseignement des mathématiques? (Eds. J. C. Bergeron et al.) Proceedings of 5th PME-NA, Montréal: UQAM.

大分古い論文ですが,1983 年の PME-NA のプレナリーの論文です.モントリオールであったためか,この論文は仏語と英語の両方が論文集に載っています.ちなみに,古い PME と PMENA の論文はほとんど ERIC (http://www.eric.ed.gov/) に入っています.また,ERIC# は PME の HP (http://igpme.org/view.asp?pg=conference_proceed) で手に入ります.

この論文の内容は,数学教育研究に認識論的展望がなぜ必要なのか,それまでの心理学だけではなぜ限界があるのかを中心に述べています.ポイントは,問いもしくは問題が数学知識の中心であり,状況を分析することが必要である,というところです.従来の心理学が主体を分析してきたが,数学教育においては,それでは数学知識の性質を十分に考慮した分析ができないというわけです.おっしゃる通りです.そして結論は,「だから conceptual field を分析する必要があるのだ」とのことです.

ベルニョーは,フランス数学教授学の創始者の一人ですが,元々心理学者です(というか現在も心理学の研究所にいます).その心理学者が上のような発想で,心理学と離縁した数学教授学を盛り上げたというのは,面白いです.もしかしたら,これが本当のピアジェ系の流れなのかもしれません.そういえば,以前ピアジェ研究所の先生にお話をしてもらったときも,だいぶ数学教授学ちっくな認識論的要素が入っているなぁと思ったことがありました.

話が逸れましたが,フランス数学教授学のポスト初期段階の考えが見れて面白い論文でした.

Sriraman, B. and Kaiser, G. (2006)

Sriraman, B. and Kaiser, G. (2006). Theory usage and theoretical trends in Europe: A survey and preliminary analysis of CERME4 research reports. ZDM, Vol. 38, No. 1, 22-51.

typo の多い論文です(笑).ヨーロッパでの理論枠組みの流行を CERME4 の論文をもとに分析したものです.主な系統としては,UK のアングロサクソン系の理論枠組みおよび研究,フランス系,ドイツ系,イタリア系をあげています,その中でも,フランス系は特殊で話す言葉が違うことに触れています.他国系が経験的な手法に基づいた心理学的な言葉が多いのに対し,フランス系が「社会文化的理論」に基づいた言葉を使うとのことです.この「社会文化的理論」というのは,あまり正しくないですが,全体的な理論枠組み(おそらくパラダイム)が違うので,言葉が違うことは確かだと思います.

また,ある研究領域では,より均一の理論枠組みが用いられ,ある研究領域では非常に不均一であると言っています.おそらく研究として根底にある問題意識と研究対象の違いが大きいのだと思います.実際,研究領域にしても,より均一の理論枠組みが用いられている領域は,情意や Embodies cognition などフランス系ではあまり研究対象にならないもしくはなっていないものだったしています.

数学教育研究がより科学的な研究領域としてアイデンティティーを得るために,異なる理論枠組みを明確にすることを,これまで ICMI Study などでも取り組んできましたが,やはり難しいですね.一番の困難性は,その問題意識と何をもって「科学的」とするかの部分だと思います.明らかにアメリカ系の「科学的」とフランス系の「科学的」は異なります.この困難性の克服のためには,理論の違いを自らのパラダイムに基づいて理解し,認め合うのだけでなく,その根底のところを相互理解できるようにすることが必要なのでしょう.

Houdement & Kuzniak (2006)

Houdement, C. & Kuzniak, A. (2006). Paradigmes géométriques et enseignement de la géométrie. Annales de didactique et de sciences cognitives, Vol. 11, 175 - 193.

Kuzniak の論文を初めて読んだ(ちょっと斜め読みだったけど).幾何のことをやっていることは前々から知っていたけど,なぜか論文を読む機会がなかった.

この論文では,Kuzniak の espace de travail geometrique という枠組みと,それらが参照する異なる幾何パラダイムという考え方を用いている.前者は「幾何活動領域」とでも訳すのだろうか.学習者が解く問題によって(特に学年によって)異なった espace で活動することが求められることを示している.例えば,小学校段階では,多くの場合,描かれているもの(signfiant)が学習の対象となっているパラダイム Geometrie I を参照する espace で活動することが求められる.すると「だいたい平行」という表現などが生じる.

おそらく,これまで幾何の区分は,「プラグマティックな幾何」と「演繹的幾何」「形式的な幾何」など,比較的曖昧に用いられてきたと思う.その線引きをパラダイムという語を用いてはっきりさせている感じ.必ずしも新しいことではないけど,特に小学校から中学校への移行期の幾何の分析に便利だと思う.

RDM と ESM にも関連する論文が出ているみたいなので,今度読んでみよう.

Kang & Kilpatrick (1992)

Kang, W., & Kilpatrick, J. (1992). Didactic transposition in mathematics textbooks. For the Learning of. Mathematics, 12(1), 2-7.

だいぶ前にこの論文について触れられているものを読んだ.米国でもフランスの数学教授学を中心に据えた研究があったのかと思い,一度読もうと思っていたのをやっと今日読んでみました(余談:FLM はネットで手に入らないから面倒).

論文は,教授学的変換(教授学的置換:まだ訳語がどっちがいいか迷っている)の視点から教科書や授業での変換プロセスを分析したもののまとめでした.後半の方は,ブルソーのいろいろな現象(トパーズ効果やメタ認知シフトなど)を教授学的変換の視点から例を挙げながらどのような変換プロセスがあるか示していました.

内容自体は普通でしたが,一ヶ所「そう言えば」とちょっと考えたところがありました.それは教授現象の一つである formal abidance (ブルソーの語では,metamathematical shift)の例のところです.著者はこの現象の例として一般から特殊への教授法をあげており,一般から特殊に基づいた教科書が米国で19世紀に出版されていたことに触れられています.参考文献は,Rash (1975) です.

ここで思ったのですが,米国の教科書を見ると,幾何も代数も高校では,どうもまだ一般から入っているように思えます.おそらく教科書自体の数学を厳密にするためなのかもしれませんが,子どもは覚えることがたくさんあって大変そうです.例えば,この論文でも指摘していますが,代数計算に関して最初に公理がその名前とともに与えられているなどです.そのため,こっちの高校生は「結合法則!」とか「分配法則!」などの言葉を意外とよく覚えています.
一方,「一般から特殊」を考えてみると,1960年代の数学教育の現代化も言ってしまえば,同じ現象を推進していたように思えます.一般から特殊の代わりに抽象から入りましたが,ほぼ同じことではないでしょうか.数学自体の出来上がった形 (formalise されたもの) が一般的で様々なものに適応できることを考慮すれば,一般から入った方が学習が速いと思うのはよくあることなのでしょう(もちろん意味の理解は伴いませんが).

Boero & Szendrei (1998)

Boero P. & Szendrei R. (1998). Research and results in mathematics education: some contradictory aspects. In A. Sierpinska & J. Kilpatrick (Eds.) Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity (pp. 197-212). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

ICMI Study の一環としてまとめられた書籍の一論文です.イタリアの大御所の先生とハンガリー人の共著となっています,この論文では,数学教育の研究の立場が,他国においても日本と似たり寄ったりなのがわかります(10年前の話ですが).そして,数学教育が一つの学問領域となり,かつ数学教育の実践に貢献するために,どのようなことが必要なのか「私見」が述べられています.著者は「私見」と言っていますが,その内容は数学教育研究一般に対して言うことができ,多くの国において必要なことだと思いました.

話を進めるにあたって,数学教育研究を以下の四種類に分けています.

- innovative patterns
- quantitative information
- qualitative information
- theoretical perspectives

簡単に説明しますと,Innovative patterns は,実践研究です.新たな指導法を考え,実践し,うまくいった!のように教師を対象とする実践雑誌に出ているようなものが想定されています.quantitative information は,学力調査のような量的・統計的な研究を指しています.qualitative information は,より詳細な質的な分析による研究を指します.そして最後の theoretical perspectives は,教授や学習の現象を説明するための理論やモデルを構築するといった研究です.最初の二つには pragmatic な数学教育を良くするといった直接的な目的で進められることが多く,あとの三つはより基礎的な科学的目的からなされることが多いとのことです.

この枠組みからみると,日本の多くの研究は,最初の二つ半ぐらいの研究が多いように思えます.三つ目の範疇に少し入るものでも,どうも「~を大事にしたい」「をすべきだ」などのイデオロギー的なものが多く,学問的になりきれていない感じがします.

話がずれましたが,本論文では,数学教育を一つの特定の研究分野にするために,学問的研究の範疇に入り得ていない innovative patterns の研究結果と,教師や数学者に対して数学教育研究を説得するために十分でない theoretical perspectives による研究結果の両方が必要であろうと述べています.実際, innovative patterns の研究結果として「~式指導法」「~式学習法」など様々な方法が発明されますが,それらがよいとする理由は曖昧です.一方,theoretical perspectives の研究は現象等のメカニズムを説明する理論構築を進めていますが,それだけでは無用の長物です.それがうまく説明できるものであることを示さなければなりません.つまり,前者を後者で説明,説得できれば,数学教育研究が一学問分野としての位置づけがはっきりしてくるという訳です.その際,難しいのは,専門用語をあまり用いずにいかに教師や数学者の言葉で説明するかと著者は言っていますが,その通りでしょう.努力が必要です.

Cevian

今日習った単語, cevian です.
三角形の頂点を通り対辺と交わる直線らしい.
中線とか,角の二等分線,なども含まれます.
日本語では名前がついているのでしょうか?

Kilpatrick, J. (2003)

Kilpatrick, J. (2003). Twenty years of French didactique viewed from the United States. For the Learning of Mathematics, 23(2), 23-27.

以前に触れた Gascon の論文と同じ号にこんな論文がありました.フランス数学教授学の米国への影響について書いています.これは,フランス数学教授学誕生20周年記念会議で発表された 1994 年の仏語論文の英訳です.少し古い論文ですが,10年たって FLM に載っていました.10年経ってというところが面白いですね.つまり,10年経ってもあまり現状が変わっていないってことではないでしょうか.

この論文では,アメリカ人研究者がフランス数学教授学に触れた際の正直な反応が書かれています.やはり,理論的な面と,数学的なアイデアがたくさんあるところが大変なようです.予想通りです.また,didactics という言葉について英語(米語?)での印象などにも触れている点は,参考になりました.didactics という語が米国であまり用いられない理由がわかります.

特に面白かったのは,引用されているフランスの古い文献です.主に二つ目につきました.一つ目は,フランスの200年前の数学教育に関する文献,二つ目は,200年前くらいにフランス人から見たアメリカの研究(数学教育には限らない)についての文献です.前者では,フランスでの数学教育の歴史が長いことがわかります.一方,後者は,数学教育に限らないことですが,アメリカがプラクティカルな側面に強く,あまり理論的なものを発展させないということに触れています.これは,私も個人的に思っていたことで,200年前から認識されていたことなのだと,びっくりしました.ところで,このプラクティカルな面が強いのは,日本も同じですね.

ちなみに,Kilpatrick は,アメリカの研究者として有名ですが,フランスの数学教授学を非常によく知っている人のようです.フランス関係のものでもいろいろなところで出てきます.もう少し読もうかなって感じです.

Inscribed Angle Theorem

日本語では,「中心角の定理」でしょうか?今日,アメリカの教科書でこの定理を見てびっくりしました.それは次のような定理です.

「円に内接 (inscribed) した角の大きさ (measure) は,切られる弧の大きさ (measure of its intercepted arc) の半分に等しい」

ここでびっくりしたのは,「弧の大きさ」という語です.「弧の長さ」ではありません.そして,「弧の大きさ」とはなんだろうと思って,数ページ前を見てみると,「弧の大きさ」が中心角の大きさで定義されていました.したがって,「弧の大きさ」は 30 度というふうに与えられるのです.

なんか非常に違和感があります,上の定理では,角の大きさと弧の大きさの異種の量を比較していますが,長さと体積を比べているような感じがして非常に気持ち悪いです.弧に長さ以外に別の測度を与える意味はなんなんでしょう?別に必要なら新たな測度を導入するのは構いませんが,どんな必要性から生じたのでしょう?弧度法をうまく導入するための準備でしょうか?

追記(2007/6/6):この定理,台湾人に聞いたら,台湾も弧の大きさ (measure) ってのがあるって言っていました.なんでだろう,もしかしらユークリッド原論では,「弧の大きさ」が定義されているのか?でも,同じ定理を確認してみましたが,「中心角」を使っています(参考:Edited by Todhunter, Introduced by Heath, Book III, Proposition 20).まだ謎です. 

追記(2007/8/21):「弧の大きさ」についてですが,ちょっとわかりました.球面幾何学(特に球面三角法)では,辺の大きさは球の中心角の大きさで表すのです.実際,球面はどれも相似なので,普通の三角法のときの単位円と同様に,単位球のようなもので考えれば十分なのです.すると辺の大きさは角度で与えておいた方が球面で三角法を扱うには便利なようです.とすると,上の米国の円での「弧の大きさ」は単位円に慣れ,球面三角法への布石なのでしょうか?まだちょっとよくわかりません.

Gascon, J. (2003)

Gascon, J. (2003) From the Cognitive Program to the Epistemological Program in didactics of mathematics. Two incommensurable scientific research programs? For the Learning of Mathematics, 23(2), 44–55.

この論文は,昔に見つけて,読もうと思いながらも,簡単に眺めただけで終わっていたものです.内容は,数学教育学研究における近年のアプローチを分析したものです.Gascon は,アプローチというよりもラカトシュの研究プログラムという語を用いています.タイトルにある,「共約不可能」の語もラカトシュから援用したものです.

まず,数学教育学の研究が,大きく分けて二つの研究プログラムによってなされているとします.認知論的プログラムと認識論的プログラムです.前者は,英米をはじめとしてこれまでの多くの数学教育学研究が進められてきた研究プログラムで,後者は70年代以降のフランス数学教授学のアプローチを指しています.そして,それぞれのプログラムの前提条件やプログラムによって導かれる問い・問題などを比較しています.

ここで問い・問題というのは,Balacheff (1990, JRME) で強調している problematique です.つまり,数学教育の実践から感覚的に導かれた問いや問題(「証明をいかにうまく教えるか?」など)ではなく,研究の大前提となる理論や枠組みから導かれる問いや問題のことです.Gascon は,それぞれの研究プログラムから problematique を導き出し,いかに異なるか示しています.これから,研究プログラムが非常に異なることがわかります.最も異なる点は,ハードコアの部分で,私が常に触れている点ですが,数学知識を明らかとしているか,数学知識自体を illusion of transparency として問い直しているか,という点です.

論文では,認知論的プログラムを三つのパースペクティブに分け,それぞれの問い・問題を導いていますが,勉強になります(私にはちょっと難しかったですが).特に,自分の研究のアイデンティティーを知り,説明できるようにするためには,重要だと思います.

追記:「認知論的プログラム」と「認識論的プログラム」という呼び方は,なかなかいいです.以前の「知識志向型研究」と同様に使わせてもらいます.

Margolinas C. (1998)

Margolinas C. (1998). Relations between the theoretical field and the practical field in mathematics education. In A. Sierpinska & J. Kilpatrick (Eds.) Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity (pp. 351-356). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

この論文の入っている本は,ICMI Study の一環で発行されているものです.それぞれの論文は非常に短いのですが,世界で第一線の研究者が数学教育の研究とはどういうものか議論しており,なかなか面白いです.

Margolinas の論文は,フランスにおける研究と実践との関わりを紹介したものですが,最初に示した研究と実践を捉える枠組みが面白かったのでそれだけ紹介します.それは次の図式で示されます.

Opinion -- Statement -- Fact/Phenomenon -- Theory -- Paradigm

左の方が実践においてよく見られるもので,右の方が研究に見られるものです.ここで Fact (事象)とPhenomenon (現象)は同じ「もの」を指していますが,数学教育学の理論によって説明可能な再生可能な fact を現象と呼んでいます.数学教育を科学として発展させるためには,theory を構築しなければならないわけですが,様々な事象の中に科学としての現象を認めなければならない訳です.

論文で出てくる例で紹介しよう.教師の「生徒が極限の概念に困難性を覚える」という statement があったとする.この statement は統計調査などを行なえば,確かめることはできるであろう.つまりこれは事象である.しかし,理論によってなぜか立証されない限り現象にはなり得ないのである.

追記:2007/08/20 に修正.fact と phonemenon の訳には「事象」と「現象」が適切なのだろうか?おそらくフッサールなどの哲学から来ているからそれをチェックしなければ.

Coordinate plane

米国の教科書で,座標平面における軸や数直線は,しばしば <------> という風に両側に矢印がついています.日本の数学に親しんでいる人には,奇妙に感じると思います.数値がどちらに行けば,大きくなるかこれだけではわからないからです.つまり,数直線が方向を持った直線であることが少し曖昧になります.

なんでこんなのを使うのかと思っていたのですが,おそらく幾何においては,直線を <------> と描き,半直線を ------>,線分を ------ と描くからだと思います.つまり数直線は直線だと主張しているのでしょう.数直線が直線であることが方向を持った直線であることより重要であるとは,あまり思えませんけど,そういった方針なのだと思います.

半直線は,ベクトルとも混乱しそうです.これは実際,図形表記だけでなく,文字表記でもベクトルとまったく同じように表記します(AB の上に矢印;直線の場合は両矢印).アメリカの高校でベクトルはやらないので,問題ないのかもしれませんが,奇妙な習慣に見えます.

Barbe, J., et al. (2005)

Barbe, J., Bosch, M., Espinoza, L., & Gascon, J. (2005). Didactic Restrictions on the Teacher's Practice: The Case of Limits of Functions in Spanish High Schools. Educational Studies in Mathematics, Vol.59 No.1-3, 235-268.

シュバラールの「教授学の人類学的理論」を用いて教師の実践における制約を分析したものです.ここで制約とは,数学知識を教えようとする際の,知識そのものによる制約です.事例としては,関数の極限を扱っています.論文は,具体例も多く非常に読み易いです.思うに,このスペインの研究グループは,いつも非常にわかりやすく説明してくれます.Bosch の講義を何度か聴いたことがありますが,そのときもそう思いました.この論文で,シュバラールの最近の理論をより深く理解できるかと思います.

論文の内容は,これまでの研究結果をまとめたものという感じで,盛りだくさんです.Praxeology を使って,関数の極限の学習に関わる基本となる数学的な枠組み (reference mathematical organisation) をうまく記述しています.教師の実践を単に実践そのものから分析しているのではなく,数学知識の視点から分析しているのです.この数学知識を特徴付ける,理解することをしっかりおさえているところが,アメリカの研究にはほとんどなく,フランス数学教授学の特徴であり,非常に重要なところです.このような枠組みなしに実践を分析すれば,経験主義的な描写しかできず,教師の行動や選択などに知識の側面から十分な意味を与えることができません.たとえ何かしらの意味を与えられたとしても,数学知識に関係ないものであったり,主観的なイデオロギーによって教育実践やさらには教師個人の良し悪しなどの議論程度になりかねません.

関数の極限に関しては,スペインの高校数学のカリキュラムでは,知識部分が空な「極限の代数」の praxeology と実践部分が空の「極限のトポロジー」の praxeology が分離して扱われており,いくら教師が努力しても,極限計算の手続き的なもの(実践部分)に十分な意味を与えることができないことを示しています.また最終章では, "hierarchy of levels of co-determination" の視点から,テーマ的な制限 (thematic confinement) が実践への制約を生んでいることも示しています.そう言えば,個人的なことですが,"hierarchy of levels of co-determination" は,2001年のサマースクールでシュバラールによる講義を聞きましたが,そのときはあまりよく理解できませんでした.この論文で大分理解できました.感謝.

Laborde, C. (2007)

Laborde, C. (2007). Towards theoretical foundations of mathematics education. ZDM, 39 (1-2), 137-144.

前回の記事の追記に少し書いたように,ZDM で "Didactics of mathematics as a scientific discipline - in memoriam Hans-Georg Steiner" という特集を組んでいました.その中の論文で,フランスの Laborde のものがなかなか面白かったので簡単に紹介します.

この論文では,フランス数学教授学のこれまでの変遷を理論に焦点を当てて紹介しています.極力,ドイツの数学教授学と関連づけているところがなかなか面白いです.フランスとドイツの両数学教授学は,たま~に共同の会議を開いて交流を図っていたようです.今回の特集には,フランス数学教授学の研究者は,Laborde しかいませんが,Straesser の論文を見るとフランスに影響を受けているのがよくわかります.

論文自体の内容は,コアとなる数学知識の研究が不変(普遍?)のものとして常に中心にある一方で,研究の焦点が少し変わってきたことを紹介しています.それは,ミクロレベルの研究とマクロレベルの研究の関係がだいぶ確立されてきたという点と,授業設計よりも通常の授業が分析対象になってきたという点が上げられています.前者は,教授学的状況理論と教授学的置換理論がだいぶ補完しながら分析ができるようになったことにあります.後者は,私の知っている2000年頃からそうでしたし,フランス数学教授学の理論は授業を理解するための道具なので,その利用方法は当然かもしれません.でも,さらに根本的な,数学教育の現象のメカニズムに研究の対象がいっているのかもしれません.

その他,数学教育の ICT 利用にも触れています.もちろん研究レベルの話しですが,近年よく用いられる分析枠組みで artefact, instrument などにも触れています.ヴィゴツキーを発展させた Rabardel の枠組みは,tool の利用には非常に便利なものですが,日本ではまだ知られていないようです.多くが英語で書かれているので日本人でも読めないことはありません.

Strasser, R. (1994)

Strasser, R. (1994). Introduction to chapter 3: Interaction in the classroom. In R. Biehler, R. W. Scholz, R. Strasser, B. Winkelmann (Eds.) Didactics of Mathematics as a Scientific Discipline (pp.117-120). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

これは論文ではなく,編集者による一つの章「教室における相互作用」のインントロダクションです.そのため特別の内容があるわけでもなく,その章の論文の解説・紹介をしているだけです.しかし,個人的に,このイントロとそのあとのいくつかの論文に興味深いところがありました.いくつかの論文というのは,フランス数学教授学のことを扱っているフランス人の Laborde とイタリア人の Bartolini Bussi それぞれの二本の論文です.興味深かった点は二点あります.

一つ目は,両者の論文において,フランス数学教授学が参照される際に,わざわざ didactique des mathematiques の語を用いているところです.この書籍は,Didactics of Mathematics as a Scientific Discipline というタイトルだし,英語の書籍なので英語を使えばいいのですが,フランス人もイタリア人も仏語を用いています.ドイツ人の言う数学教授学とフランスの数学教授学が異なるものだと二人の筆者が認識していることが見て取れます.

二つ目は,Strasser がイントロで使っている言葉です.フランス数学教授学のアプローチを "knowledge-oriented approach" (p.119) など "knowledge-oriented" の語を使っています.これは言い得て妙だと思いました.確かにその点が他国のアプローチと非常に異なる点の一つです.Strasser 自身,フランス数学教授学のことを非常に良く知っている人です.日本語だと「知識指向型アプローチ」と言えるかと思います.今度使わせてもらいます(謝).


追記 (2007/5/11):この著者の名前ですが,英語表記すると本当は Straesser のようです.a にウムラートがつくと ae に相当するみたいです.ドイツ雑誌の ZDM ではそうなっていました.たまたま今日見つけたのですが,ZDM の 2007 年の 39 号にこの本とほぼ同じテーマでかつ執筆者も似た面々で特集が出ています.あと,いつの間にか ZDM もSpringer の website から発行されるようになったのですね.